運命の彼方
だが、医院は亡き父と母が築いた医院、幸樹は、どうしても、他の土地へ移る気になれなかった。
「そうだね、考えおきます」
幸樹は、和歌子の忠告を無下に断れずに、和歌子を立てるように言った。
「じゃあ、真剣に考えてね」
和歌子は我が意を得たりと、気分良く帰っていった。
翌日、幸樹は勤めていた大学病院から、せび、応援を頼むと言われた。
応援の条件を聞くと、勤務地は泉南市岬町、勤務は周一回、曜日は木曜。勤務初日は大型連休明けの五月十日だった。
木曜日は、彼方医院の休業日。勤務地は岬町。通勤時間は、南海電車の天下茶屋駅からみさき公園駅まで約四十分。みさき公園駅から病院まで、歩いて十分である。 通勤時間は問題だが、みさき公園駅には、みさき公園があり、子供の頃、両親と何度も遊びに行った楽しい思い出があった。 木曜日は何もない日、電車に乗って、子供の日の楽しかった事を思い出すのも、良い気分転換になり、和歌子や事務員の給料の助けになると考えて引き受けた。
その日も、患者は数人だった。しかし、和歌子が心配する倒産はしない。和歌子は知らないが、父親の遺産は、幸樹が遊ばなければ一生暮らせるほどあったが、幸樹はその遺産の全てをサギソウの少女のために残して置きたいと考え、自分が今日まで、こつこつと貯めた金と母親の遺産で医院を経営しているのだ。
このまま、何年間も患者数が一桁だったら、父親の遺産に手をつけねばならないため、幸樹としても、安穏としていられないのだ。 患者の居ない診察室で、何とかしなければと思案を巡らしていると、和歌子が不機嫌な顔をして入ってきた。
「先生、お客よ」
見ると、八年前に別れた妻の早苗だった。
「お父さん亡くなったんですね。ご愁傷さま」
「お悔やみはいいから、すぐ、帰ってくれないか」
幸樹が不愉快そうに言った。
「貴方が心配だったので来たのよ」
「僕は心配してくれなくてもいいから、早く帰ってくれ」
「冷たいことを言わずに、私に少しだけ話させてください」
早苗が懇願するかのように芝居する。
「少しなら聞くが、時間がないから、早く話をすましてくれ」
早苗の性格を承知している幸樹は、少しでも優しい言葉をかけたら、後々、どんな難題を持ち込まれるかわからないので、必要以上に冷たくした。
「分かったわ」 早苗は、さり気なく、楽しかった幸樹との過去を話していたが、突然、泣きながら幸樹にすがりつき、許しを乞うた。
「貴方の大切な赤ちゃんを死なせてごめんなさい」 「僕に謝っても仕方がない。僕はあの子が生まれていたら、今、どんな子供に育っているだろうと、同じ年ごろの子供を見るたびに胸が痛むんだ。だから、あの子を思い出すたびに冥福を祈っているんだよ。謝りたいのなら、僕ではなく、あの子に謝りなさい」
「ええ、そうするわ」 早苗がしおらしく言った。
「親に捨てられた子供は悲しい、まして、殺された子供はなお悲しい」 「悪いことをしたと後悔しているわ」
と早苗が神妙に答えた。
「後悔しても、もう遅いよ」
幸樹が怒りを込めて言った。
「分かっている、だから、私は貴方の子供を生み、貴方を支える良い妻になります。どうか、私と再婚してください」
早苗は復縁を迫った。
「僕は誰とも結婚しないと決心しているんだ。だから、その話は二度としないでくれ」 幸樹は、サギソウの少女と十年後に逢い、場合によっては、一緒に死ぬかもしれないのだ。そのため、結婚は無論、恋愛も禁じているのだ。
まして、愛していた早苗であっても、今は、別れて良かったと思っている早苗と再婚など考えることさえ嫌だった。
「分かったわ。二度とお邪魔いたしません」
早苗は素直に帰っていった。
だが、それは、早苗の偵察だった。 五月十日、この日は、幸樹が岬町の病院へ初出勤する日だった。
天下茶屋駅へ来た幸樹は、久しぶりに子供になった気分で到着した和歌山行き急行電車に乗り、空いていた席に座り目を閉じた。 すると、隣に人が座り、香水の匂いがした。 (この匂いは)
嫌な匂いに悪い予感がしたので横を見ると早苗だった。 「どこへ行くんだ」
「岬町の病院よ」
「何という病院だ」 「貴方が勤務する病院よ」
「なぜ、行くんだ」
幸樹が詰問するように尋ねた。
「貴方が勤務する病院を、妻であった私が知らないではすまされないからよ」
幸樹は驚きと怒りで言葉がでない。
「そうでしょう、私と貴方は再婚するんだから」 「その話は二度とするな」
怒りに任せて喧嘩すれば、周りが迷惑するため、怒りを押さえ、早苗を無視することにし、目を閉じた。
その時、
「泉佐野駅、いずみさの駅です。関西空港へ行かれるかたはお乗り換えください」
車内放送が聞こえ、まもなく、電車が停まった。
目を閉じた幸樹の耳と感覚は、電車のドアが開き、人が下車し、人が乗車する音と気配が感じられ、ドアが閉じそうになったとき、乗客が飛び乗ってきた気配を感じたのと同時に、あっと悲鳴らしき声と同時に自分の胸にどーと倒れこんできた人の重みを感じた。
目を開けると、若くて美しい女性が自分の膝の上に倒れていた。
「大丈夫!」
幸樹は、女性の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「あっ!」
声をあげた女性の目から涙を流し、幸樹に抱きついた。
「恐かったんだね」
幸樹が女性を優しく抱いて言った。
女性が嬉しそうに何か言おうとしたとき、それを阻むかのよう早苗が幸樹を窘めた。
「貴方!、いつまでも、若い女性を抱いているの、失礼ではありませんか。早く、その人を立たせてあげなさい」
早苗の言葉に女性は驚きの目で早苗を見ながら立ち上がり、ごめんなさいとばかり、目礼した。
「僕が悪いんです。御免なさい」
突然、幸樹と女性の間に割り込んだ若い男が女性に謝った。すると、女性も落ち着きを取り戻したのか冷静に言った。