運命の彼方
少女は改札口を入ると、すぐ姿が見えなくなった。 幸樹は少女が戻ってこないか心配だったので、改札口に居たが、少女が戻ってこないので、改札口を離れた。幸樹の様子を物陰から少女が見ていたが、幸樹の姿が見えなくなると、電車に乗った。少女の氏名は、鷺草 舞、十二才。
幸樹が鷺草の海で舞を助けてから一年後の六月十五日。
鷺草の海は、強い強風に曝され、大波が白い牙を剥き、海岸目掛けて打ち寄せていたが勢いが余って、松林の中まで入ってきてくる。
鷺草の磯の上で幸樹が打ち寄せる大波の飛沫を浴びながら、海に向かって叫んでいた。 「鷺草の少女が死んだのは僕の責任です。どうか、僕の命と引き替えに、少女を生き返らせてください!」
幸樹が鷺草舞の死を知ったのは、十日前の夜だった。
ニースを何気なく見ていると、南紀の海で少女が溺れ死んだと伝えていた。
幸樹は、見た瞬間、背筋が寒くなるように悪い予感がしたため、急いで、インターネットで、少女の名前を検索したが名前と場所を伏せていた。
名前と場所を伏せているのは、自殺を誘発しないための措置と思った幸樹は、自殺と断定し、氏名と場所を調べたが、辛うじて分かったのは場所だった。
だが、分かった場所は、幸樹が最も恐れていた鷺草の海だった。また、鷺草舞が自殺したとする決定的な証拠は、少女が溺死した日が六月五日、即ち、この日は、昨年、鷺草夫婦が自殺した日だったのだ。
(少女の願いは、大好きな両親の所へ行くことだった。それなのに、僕は、自分の命を賭けた約束だから、と過信したために、少女を死なせたのだ。もし、過信しなかったら、必ず、両親の命日、六月五日にこの場所へ来て少女を助けられた)
と我が身を責めていた。しかし、その時。
鷺草の海を囲む松林の中に緑色のレインコートを着た少女が現われた。よく見ると、幸樹が死んだと思っている舞だった。
舞は、しばらくの間、荒れ狂う海を見つめていたが、決心したように、鷺草の磯の方へ向かって歩きだした。
舞の行く手を阻むように、海は大波を松林へ打ち寄せるが、舞は怯まずに前進する。
一年前、幸樹に助けられた舞は、足の不自由な祖母を助けながら学校へ通っていたが、両親が借金を残して自殺したことが知れると、親しい友人たちは手の平を返すように冷淡になり、やがて、苛めへと発展した。
しかし、舞は祖母の手助けをし、幸樹との約束を守るために、どんなに辛くても、歯を食いしばって我慢した。
しかし、祖母は息子が残した借金を苦にしたせいで、徐々に体調を崩し、一週間前に死んでしまった。
祖母は死ぬ前、舞の実の両親は交通事故で亡くなり、鷺草家の養女になったことを言い残して死んだのだ。
大好きな祖母の死、そして、大好きな両親が実の親でなかったことを知った舞の悲しみは頂点に達し、両親の海へ死ににきたのだ。
舞が急に立ち止まった。
「お兄さんが来ている!」
舞が驚きの声を上げた。だが、その声は、打ち寄せる怒涛の音に消され、幸樹の耳には聞こえなかった。
舞の目から涙が溢れ出た。
「嬉しい、こんな荒れた天気なのに、わたしの死を心配して来てくれたんだわ」
溢れる涙を拭きもせずに舞は、幸樹の所へ駆けだそうとしたが、何を思ったのか、急に松の幹に隠れて呟いた。
「わたしには、わたしのことを、こんなに心配してくれるお兄さんがいる。そんなお兄さんを道づれにできないわ。だから、もう、お兄さんの所へ行きません。でも、お兄さんの胸に飛び込んだら、私の悲しみなどどこかに吹き飛びます。でも、私がお兄さんとの約束を守らずに死にに来たことを知られることが何よりも悲しい。そして、お兄さんは私を信用しなくなり、一生涯、いつ私が自殺するのではないかと怯え苦しむに違いないわ。だから、ここで、お兄さんに約束します。私は、鷺草の海、鷺草の磯で、二度とお兄さんと逢わないと約束します」
両親と祖母に先立たれ、情け容赦ない苛めと不遇に耐えた舞は、我が心を抑え、人を思いやる優しい少女になっていた。
舞は、幸樹の姿を瞳に焼き付けるように見ていたが、やがて、松の間を縫うように帰っいった。だが、その姿は限りなく寂しげだった。
しかし、幸樹に分かるはずもなく、波飛沫に曝されながら、一日中、鷺草の磯の上に立ち、自分を罰していたのだ。
だが、幸樹は鷺草舞の死を実際に確認していないために、五年後の今日まで、舞が生きていると一縷の望みを抱き、生きているなら来てほしいとの願望から、五月三十一日は和泉葛城山、六月五日と十五日は鷺草の海へ行き、舞が現われるのを待っていたのだ。
幸樹が五年間の過去から現在に戻った時には正午を過ぎていた。
「五年前の今、少女は模型飛行機を飛ばしていた」 呟いた幸樹がカヤ草原を見たが、少女はいなかった。そこで、展望台広場に少女がいるかも知れないと考えていった。
しかし、少女らしき子供は一人もいなかった。
約束した人との待ち合わせで、待ち合わせ時間がきても現われない相手を待つ数分でも永遠の長さに感じるが、舞が現われるのを待つ幸樹には、一日があっというまにすぎ、やがて、空には美しい夕焼け雲が現われ、紀泉高原を黄金色に染め、幸樹に帰れと命じた。 幸樹は、哀しみの目で、遥か彼方を見ながら言った。
「今日は今日、明日は明日、明後日は明後日、明々後日は明々後日の定めに従い、風の向こう、風の向こうの彼方、風の向こうの彼方のその遥か向こへ行けば、きっと 愛する人に逢えるだろう」
幸樹は、一縷の望みを抱き、和泉葛城山を後にした。
再会
八年後の四月
彼方外科医院の診察室。
「先生、今日の患者さんは七人でした」
看護士の吉田和歌子が深刻な顔で報告した。
「そうか」
幸樹も深刻な顔をする。
「先生、今後のことを考えましょう」
「今後のこととは?」
「言っていいですか」
「何を言ってもいいよ」
「患者さんがこんなに少なくては彼方医院が倒産します。どこか、他の土地へ医院を移転した方がいいのでは?」
和歌子が忠告した。
昨年、外科医院を経営している幸樹の父親が死亡した。幸樹は、すぐ、大学病院を退職し、父親の彼方医院を継ごうとしたが、大学病院の都合により、三ヵ月も退職が遅れたために、彼方医院を三ヵ月間、閉院していた。
彼方医院に外来患者として籍を置く患者にとって、三ヵ月も投薬及び診察、処置が受けられないのは命に関わる重大事なのだ。
また、彼方医院の所在地、岸の里は、開業医が乱立しているため、彼方医院に籍を置いていた全ての患者は他の医院に移っていた。
一度、他の医院に移った患者は、よほど、移った医院や病院が悪くないかぎり戻ってはこない。
幸樹が開院してから早、五ヵ月。一向に患者が増えないため、父親が開業したときから看護士として勤務する和歌子が幸樹の尻を叩いているのだ。