運命の彼方
サギソウの海
約束の前日、幸樹は午前の診察を終えたると和歌子が入院している病院へ行った。
病室に入ると、和歌子は眠っていた。
「和歌子さん」
和歌子が驚いて目を覚ました。
「幸樹さん」
和歌子は、この病院では、紛らわしいので、幸樹を先生と呼ばないようにしていた。
「どうですか、病状は?」
「日々、快方に向かっています。それより、幸樹さんの手助けできないのが辛いわ」
「そんなこと心配しなくてもいいから、早く良くなってくださいよ」
幸樹が和歌子の手を優しく握る。
「幸樹さんに優しくされて嬉しい」
和歌子の目から涙が出る。
「和歌子さんは、僕にとって、母同然です。いつまでも元気でいてくださいよ」
「有難うございます。病気が治ったら、今まで以上、幸樹さんのために働くわ」
「今日は、今までのお礼をしたいと思って来ました」
「お礼?」
「病気で入院したら沢山のお金が必要になります。どうか、これを受け取って下さい」 幸樹が小切手を差し出した。
「まあ、こんなに、何が何でも多すぎます。こんなお金は受け取れません」
「これは、当然支払うべき退職金の先払いです」
「退職金にしても、多すぎます。これは受け取れません。もしかしたら、私を解雇するつもりですか」
和歌子が悲しそうに言った。
「違います、和歌子さんが辞めると言わないかぎり、絶対に解雇などしません」
「本当に?」
和歌子が疑わしそうに言った。
「本当です。もう、いくら和歌子さんが辞退しても駄目、和歌子さんの口座に振込みますから、入院費用にあててください」
「それにしても多すぎるわ。幸樹さんは、私に何年、入院をさせたいのかしら。でも、好意を有り難く受け取ります」
「それを聞いて安心しました。じゃあ、何時までもお元気でいてくださいよ」
幸樹が帰ろうとすると和歌子が。
「待ってください。幸樹さんは私に永の別れを告げにきたの、そのように聞こえるのですけど、私の思い違いかしら」
「思い違いですよ。お見舞いの時は、誰でも同じようなことを言います」
「それならいいんだけど」
「和歌子さんは、病気で心が弱くなっているせいですよ」
「そうね、そうかもしれないわ」
幸樹は涙を堪え、もう一度、和歌子の手を握り病院をでた。
「これで、やり残したものは何も無い。後は、鷺草の海へ行くだけだ」
小さく呟いて幸樹は帰っていった。
やがて、午後の診察を終えた幸樹は、和泉舞が働いていた事務室に入り、舞が居るかのように話しはじめた。
「舞さん、ごめんよ、僕は鷺草の少女が一緒に死んでくださいと言ったら、おそらく、約束を果たすでしょう。それなのに、あなたに愛を告白してしまいました。それを知りながら僕の愛を受け入れてくれました。ありがとう、もし、来世があるなら、先に行って、貴女を待っています。許してください。また、僕は貴女を騙しました。何故なら、僕は鷺草の少女と一緒に居るからです」
許しを乞った幸樹は、鷺草の海へ行く支度を始めた。
支度が終わると、幸樹は、急いで、JR和泉砂川駅に行き、和歌山経由新宮行きの電車に乗った。
十日前、時間は違えど、幸樹は和泉舞を伴い、新宮行きの電車に乗った、あの日のこととが切なく蘇り、知らず知らずに涙が出ていた。
滅入る気分を晴らそうと、外の景色を見るが、漆黒の暗やみで何も見えない。だが、ガラス窓には、悲しそうな男の顔が映っていた。
(泣くな、泣く前に、鷺草の少女が泣きながら電車を乗り継ぎ、鷺草の海へ辿り着いた悲しみを考えろ。お前の辛さなど物の数でもない)
ともすれば、弱気になる我が心を叱咤する幸樹。
しかし、和泉舞のぎこちない姿が目に浮かぶと、可哀相でならなくなり、帰りたくなる幸樹だった。
そして、和泉舞の手足となり、幸せを絶対に守ると誓ったことを思い出す。同時に、一緒に死んで上げる言った時の嬉しげな鷺草の少女の顔を思い出す。
「可哀相な二人」
二人とも幸せにする方法を見付けられない今の幸樹には、ただ、可哀相としか呟くしかないのだ。
やがて、鷺草の海へ通ずる駅に付いた、時刻を見ると午後、十一時を過ぎていた。 駅を出だ幸樹は、宿泊の予約をしていた駅近くの民宿へ行き、寝床に入ったが、どうしても眠れず、午前三時前に起床し、民宿を出た。
外は暗やみ、幸樹は、僅かな星明かりをたよりに、覚えておいた道を手すがり状態で前に進んでいると、ふと、和泉舞のことを思いたす
(目が見えないことの苦労が分かった。もし、生きていたら、舞さんの目を治し、一生幸せにして上げる)
やがて、松林に到達し中へ入った。中は漆黒の暗闇み、進む向こうから微かな光が見える。どうやら、漁船が点す光のようだ。
その光を目標にして進と、浜辺に出た。この暗闇でも、白い砂浜は小さな星の光に反射し、海と砂浜を識別させてくれた。
幸樹は浜辺を歩いて、鷺草の磯に向かった。
鷺草の磯に着くなり、幸樹は叫んだ。
「元気な 鷺草の少女に逢いたい!」
しかし、穏やかな海は何も答えてくれなかった。
幸樹は、鷺草の少女に逢った時のように、松の木陰の青草の上に寝転び、空を見上げると、間もなく東の山から朝日が昇るのか、真上に浮かぶ雲の東側が金色に輝いていた。 幸樹は、鷺草の少女に逢えるよう、白くて小さな雲を探したが無かった。
「白い雲が無いのは、鷺草の少女に逢えないという報せなのか」
呟いた幸樹の心を冷たい風が吹き抜ける。
幸樹の脳裏に、十年前の光景が目に浮かぶ。
和泉葛城山、展望台、青い萱草原、模型飛行機、白い雲、助けてくれてもお礼は言わないと恨めしげに言った少女の顔、一緒に死んでくれるのと言った嬉しげな顔、お婆ちゃんが心配するから私帰るわ、と毅然と言った顔、何時もお兄さんが居ると言った少女の愛らしい顔、そして、一度来たら、目が見えなくても来れるわ、と言いながら、幸樹が止めるのを振り切って海に入って死ぬ辛い夢を何度も見たこと等が甦ってくる。
「鷺草の少女よ、君が生きていたら、僕は、君を絶対に死なせたりはしない。そして、幸せにして上げるから、すぐ、来てくれ」
幸樹の心の中で、少女は死んでいる。しかし、十年前の光景があまりにも鮮明だったので、少女が近くに居るような錯覚を覚えたのだ。
時は刻々とすぎ、正午になった。
(間もなく来る)
そんな予感がした。なぜなら、鷺草の少女と逢った時と同じ日差しを、幸樹は心身に感じたのだ。
(君と逢った時刻だ、早く逢いに来てくれ)
昨日まで、幸樹は、鷺草の少女の死を否定しなかった。だが、今日は、鷺草の少女と逢える最後の日となると思うと、辛くて少女の死を認めることができない。
(いや、絶対に来ないでくれ。来ないことは、君の幸せの証明なのだ」