運命の彼方
それは、一時も忘れたことがない幸樹の声だった。舞は、はっと、自分がしていることに気付き、幸樹に申し訳ないと思った。
舞は平静を装って言った。
「少し頭を冷やそうと思い、歩いているのです」
「舞さん、話が有ります、僕の車に乗ってください」
舞が車に乗ると幸樹が言った。
「僕は舞さんに何と言って謝ればいいのか分からないほど後悔しています」
「謝るて、何のことですか?」
舞は、幸樹に心配をかけないように言った。 「和歌子さんや早苗さんが舞さんを苛めていることに気付かなかったからです」
「いえ、私にも責任がありますから、気にしないでください」 「医療機器メーカーの人との商談が終わり、貴女に逢いに行くと、貴女が居ないので、和歌子さんに聞くと、帰ったと言うのです。なぜ、帰ったのかと問いだすと、早苗さんが貴女を追い出したと言うのです。僕は、急いで貴女の家に行ったのですか留守でした。しかし、僕の患者さんで、舞さんをよくご存じの方が、舞さんが悲しそうな顔をしながら、和泉砂川駅の方へ向かったとね。僕は必死に探しました」
舞は、自分がどれほど幸樹に愛されているかを知った。
「すみません」
泣きながら舞が謝った。
「僕こそ、謝るべきです。なぜなら、僕は舞さんに真実を話していなかったんです」
「真実?」
「早苗さんは、僕の元妻で、現在は妻でも何でもありません。結婚したのは、今から十五年前、離婚したのは十年も前です。だから、僕と早苗さんとは何の関係もないんだよ」 「十年も前ですか」
舞は、はっと、気付いた。
(再出発とは、早苗さんと別れた日かもしれない。そうよ、きっと、そうよ。だから、私が先生、いえ、お兄さんに恋しても、だれも咎められないんだわ)
舞の心は嬉しさではち切れそうになる。
「そうなんだ。だから、早苗さんが言ったことを気にしないでください」
「分かったわ。でも、早苗さんが来なくなるまで、医院を休ませてください」
「当然のことだ。今月中には、必ず、早苗さんを来ないようにするからね。決着が付いたら、舞さんを迎えに行きます」
「そんなに親切にして頂いていいんですか」
「僕や医院にとって、もはや、舞さんは無くてはならない人なんです」
「本当ですか。こんな私で良かったら、何時までも仕事をさせていただきます」
「良かった」
幸樹が心底から安心したように言うと、舞を家に送っていった。
翌日、
和歌子が舞の家に来て、苛めたことを心から謝り、帰っていった。
数日後、和歌子が彼方医院へ出勤しなかった。
遅刻や休む時は、必ず連絡する和歌子が何の連絡もしてこないため、和歌子の家に電話したが通じなかった。
幸樹が心配していると、和歌子の家族から電話があり、和歌子が脳梗塞で倒れ、救急車で病院に運ばれたと知らされた。
幸樹は、すぐ、見舞いに行きたかったが、患者が診察を待っているので行けない。そこで、幸樹は、昼の休診時間に行くことにした。
昼の休診時間になった。幸樹は見舞いに行こうとしたが、一応、舞にも連絡しておくべきだと考え電話した。
「ええ!、あの元気そうな和歌子さんが脳溢血で倒れたんですか」
「そうなんだ、舞さんには、ずいぶん酷いことをしたけど、僕にとっては、母親以上にお世話になった人だから心配しているんだ」
「先生には話していませんでしたが、和歌子さんが、わざわざ、私の所へ来られ、何度も何度も謝ってくれました。和歌子さんは、決して悪い人ではありません。私は、和歌子さんの身が心配でなりません。今日、先生がお見舞いに行くようだったら私も一緒に連れていってください」
「分かりました、でも、今日はよした方がよいと思う」
「何故ですか?」
「面会謝絶だから、行っても会えないよ」
「でも、和歌子さんは私の恩人でもあります、ぜひ、連れていってください」
「優しい舞さんらしい、分かりました、じゃあ、すぐ、迎えに行きますから待っていてください」
舞は幸樹に連れられ、和歌子の見舞いに行った。
幸樹が予想したように、誰も和歌子に面会できなかった。だた、一つの朗報は、軽い梗塞だったので、一ヵ月もすると、退院できるとのことだった。
一週間後、和歌子の面会が可能になったので、舞は、幸樹と一緒に和歌子を見舞いに行くと、和歌子は涙を流しながら舞にお礼を言った。 やがて、二人が帰ろうとすると、和歌子が言った。
「舞さんだけに話したいことがあるの」
「じゃあ、帰るからね、用心するんだよ」
幸樹が病室を出て行こうとすると
「先生、舞さんをお送りして頂くんだから、先に帰ったら駄目よ」
「はい、分かっています」
幸樹は何時もの和歌子に戻ったと、安心して部屋を出た。
「話って、何でしょうか?」
「舞さん、先生の手助けをしてあげてください、願いします」
驚いた舞は、何を、どう答えてよいか分からずに居ると、和歌子が性急に言った。
「私は、先生と舞さんが付き合うことを反対していましたが、今は、付き合って頂きたいと思っているのです」
「でも、私は目が見えないから、足手纏いになるだけで、何のお役にも立てません」 「いえ、役に立てます。先生を孤独から守という役にです。もし、舞さんが、先生を嫌いでなかったら、私の願いを聞き届けてください」
舞は、和歌子から思いがけないことを言われて困っていた。
「今、返事を頂けなくてもいいから、よく、考えてください」
「はい、分かりました」
「このお礼は必ずします、もし、舞さんが先生の奥さんになるようなことがあればですけどね」
思わぬ言葉の連続で、舞は何も言えなかった。和歌子は、脳梗塞の後遺症で自分の手が不自由になる恐れを感じたとき、舞の辛さが分かったのだ。
そこえ、看護師が担当医の診察を告げにきた。
「私は帰りますが、お体を大切にね」
舞は、病室を出た。
「話、終わったの?」
「ええ、終わったわ」
舞の顔は喜びに満ちていた。
「いい話だった?」
「ええ、とても」
幸樹は舞の嬉しそうな顔を見て、知りたくなった。
「嬉しそうな顔の訳を教えてください」
和歌子の話は、実現不可能な夢のような話だった。
「誰にも話せないことなのよ」
「なるほど」
分からないが分かった振りをし、幸樹は舞を送っていった。
六月になった。
鷺草の少女と交わした約束の日が近付くに従い、幸樹は、一日一日、その緊張感が増してきた。
そして、舞に愛を告げず、永遠の別れになるかもしれないと思うと、切なくて、息もできないほど胸が痛む。