運命の彼方
「はい、私も大好きです」
「それはよかった、これを食べなさい」
幸樹は、舞が泣き止むのを待ち、サンドイッチとお茶が入ったペットポトルを舞の手に持たせた。
幸樹は、舞が食べやすいように、小さなサンドイッチを作ってきたのだ。そのこと知ったのか舞が言った。
「先生の優しさが、私を泣かせたんです、泣かせたのは先生よ」
舞が、恨めしそうに言った。
「僕の優しさ……」
「ええ、そうよ」
舞は、哀しみと嬉しさを噛み締めるように、サンドイッチを食べ始めた。
幸樹は、鷺草の少女が恨めしげに、助けてくれても、お礼をいわないわ、と言っていたことを思い出した。
(僕は、絶対に鷺草の少女と舞さんを幸せにしてみせる)
と改めて誓った。
幸樹は自分の正体を明かすのは、鷺草の少女と逢う寸前にしようと考えていたので、出来るだけ舞との食事をすることを避けていた。 そのため、サンドイッチを食べる時は、不粋で不自由だが、マスクを外し、話す時はマスクをかけていたのだ。
幸樹がマスクを外した時、
「痛い!」
近くから、女性の悲痛な声を聞こえてきた。
幸樹が振り向くと、老女が倒れていた。
驚いた幸樹は老女に声をかけた。
「どうなさいました」
と尋ねながら老女に駆け寄った幸樹が言った。
「大丈夫ですか?」
その声を聞いた舞が、あっ、と驚きの声を上げ、見えぬ目で、声の方を見た。
だが、老女の容態が心配な幸樹には聞こえなかった。
「何でもありません、ただ、木の根子に躓いて倒れただけよ」
老女が気丈に答えた。
「でも、足を擦り剥いていますよ」
「あら、大変だわ」
老女は血を見て、急に震えだした。
「僕は彼方幸樹という外科医です。治療しますからね」
幸樹は、舞の所へ戻ると、何も言わずに治療用具を持っていった。
舞は驚きのあまり声がでない。
(先生がお兄さんだったんだ)
舞の驚きは大変なものだった。
(なぜ、声が違っているの?)
舞には理解できなかった。
幸樹が患者に言った。
「少し、ズボンの裾を捲りますよ」
幸樹は老女のズボンの裾を捲り、薬を塗り包帯を巻いた。
「さあ、終わりました」
幸樹は、老女を助け起こしながら言った。
「骨折していないか、調べたいので、歩いてください」
老女は、恐る恐る歩き始めたが異常を感じなかったのか、安心したように言った。
「どこも異常ありません」
「それは良かった。もし、後で痛くなったら、出来るだけ早く、病院へ行きなさい」
「はい、有難うございました」
「じゃあ、お気を付けて花見を楽しんでください」
(和泉葛城山の声、そして、鷺草の海の声、やっぱり、先生がお兄さんだ)
舞は、声の似ている人が居ることを知っているので、先生の声が少し、お兄さんに似てても、確かめようとは思わなかった。
幸樹は、舞の所へ戻ろうとして、マスクを掛けていないことに気付いた。
(まずい、舞さんに気付かれたかな)
幸樹は急いでマスクをつけながら、舞を見ると泣きながらサンドイッチを食べていた。 無論、幸樹の正体に気付かない振りをするために。
「一人にしてごめんね。でも、もう、離れないから、ゆっくり食べてください」
「何処へ行っていたの?」
「何も知らなかったの?。怪我をの治療をしていたんだよ」
「怪我、誰が怪我したの?」
舞は、幸樹が電車の男だと知らない振りをする。
「老女です。でも、何が悲しいのですか」
「先生が作ってくれたお弁当が美味しかったので夢中で食べました。すると、嬉しくて涙が止まらないのです」
幸樹は自分の勘違いに気付いた。
(そうか、突き倒されて仰天している女性に、大丈夫ですか、と声をかけても、その声を覚えている筈がない。僕の一人よがりだったよ。でも、細心の注意を怠らないように、今後も今まで通りにしよう)
幸樹は嬉しそうに尋ねた。
「そんなに美味しい」
「うん、美味しいわ」
舞は何時の間にか、サギソウの少女になっていた。
だが、幸樹は気付かなかった。
舞は、心の動揺を隠すために、泣きながら、サンドイッチを食べる、その様が幸樹には子供のように、愛くるしく見えると同時に、鷺草の少女を思い出した。
(あの少女が生きていたら、いま、舞さんと同じ年ごろ、舞さんがあの少女なら、どんなに嬉しいだろう)
幸樹は鷺草の海を思い浮べていた。
「先生、何を考えているんですか?」
「いえ、何でもない」
「嘘でしょう、怪我をした人の心配をしているんでしょう」
確かに、心に大きな傷を持っていた少女のことを思っていたので、
「少し、心配になってね」
舞は、自分が鷺草の少女だと、気付かれないように、幸樹の気を他に向けた。
しかし、心の中では、譫言のように何度も同じ事を言っていた。
(先生がお兄さん、いえ、お兄さんが先生)
もう、絶対に逢えないと諦めていたのに逢えた、いや、毎日のように逢っていた。そして、和歌子が心配するほど、女性として愛されていることを感じていた。 舞は、お兄さんに愛されていたと思うと、天にも昇るほど幸せだった。
だが、同時に和歌子の言葉を思い出した。
「先生の手助けが出来る人でないと奥さんになる資格はないのよ、足手纏いになる女性
は邪魔なだけよ」
その言葉が、舞の心に冷たく突きささった。
(私は、お兄さん、いえ、先生のお世話を何一つできない足手纏いの女)
そう思うと、地獄の苦しみに襲われた。
(私はお兄さん、いえ、先生を幸せにできない女、去るしかないのね) だが、去るに際し、鷺草の海で助けた少女が、今の舞だと知られていないかという心配があった。 幸樹の脳裏には、少女の悲しい顔や姿が強烈に残っていたために、美しく成長した大人の舞が同一人物には見えていなかったのだ。
舞は、幸樹と別れる理由に、他の仕事がしたいと言おうとした。 だが、それを今日、言うべきでない。今日は、大好きなお兄さんと楽しい最後の別れをしたいと思った舞は、涙を拭き、精一杯、幸樹に甘えた。
「先生、私、とても幸せよ」
「僕も舞さんに負けないほと幸せだよ。また、来ようね」
「はい」
と答えた舞だったが、二度と来れないと思い、涙が溢れる。
(私の瞳に居る大好きなお兄さんが先生、私の大好きな先生がお兄さん、私は、お兄さんと呼べばいいの?、それとも、先生と呼べばいいの?、どちらも大切、でも、できることなら、お兄さんと呼びたい)
呼び名は舞にとって、重要だった。