運命の彼方
「いえ、絶対に音を上げません」
「じゃあ、今日から、この事務室の管理者は和泉舞さんです。退屈したら、自分のしたいことをして、気分転換をはかってください」
それから幸樹は、舞に必要なことを全て教え、診察室へ行った。
翌日から、舞は一生懸命、電話受け付けの仕事をしていた。仕事は主に、診療時間の問い合わせだったが、想像していたより多くの電話がかかってきた。
目が見えない舞にとって、どんな用件による電話であろうと、人と会話できることは生きている実感が持てた。
(私の天職は、この仕事だわ、いつまでも、この仕事がしたいから、一生懸命に頑張るわ)
舞は嬉々として働いた。そんな舞を時々訪れた幸樹が満足そうに見つめていた。
しかし、幸樹の舞に接する態度が和歌子には気に入らなかった。
我慢できなくなった和歌子は、幸樹に言った。
「先生、舞さんに夢中になったらだめよ」
「なぜ、そう見える」
不意を突かれた幸樹は、顔を赤くして尋ねた。
「舞さんに恋しているように優しいんだもの」
「そんな心算は全然ないよ」
和歌子が開き直って言った。
「言い訳しても駄目。ここで、はっきりと先生に忠告します」
「何をかね」
「舞さんとの結婚はお止めください」
「する気はないが、何故?」
「目の不自由な人と結婚したら、先生の医療業務の妨げになるからです。結婚する人は先生の補佐が出来る女性でなくてはなりません」
「差別はいけないよ」
「私は、先生のお母さんに頼まれているのです。幸樹を助けてくださいと。だから、先生の足手纏いになる舞さんとは、絶対に結婚させません」
「困ったことをいう和歌子さん」
鷺草舞との約束を果たすためには、誰とも結婚する意志がない幸樹にしてみれば、和歌子の心配が馬鹿げて見えた。
「そうだ!、私がよいお嫁さんを見付けてくるから結婚しなさいよ。そうすれば、早苗さんだって、絶対に来なくなるわ」
「無駄は止せ」
と言って、和歌子を無視した。虫が納まらない和歌子は、舞の事務室へ行き。
「舞さん、先生に優しくされても、先生を好きになったらだめよ」
舞は、考えもしなかったことを言われ、ただ、おろおろとするばかりだった。
和歌子は、舞がおろおろする様をみて、納得したのか、舞の事務所を出ていった。
幸樹は、舞が自由に仕事が出来るようにと、よほどの理由がないかぎり、舞の事務室に行かないようにしていた。
そのため、和歌子が舞を苛めていることに気付かなかった。 今日も、和歌子が来て言った。
「和泉さん、先生と結婚しようなどと考え、先生と親しくしたらこの医院から出ていっもらうからね。理由は、貴女の目が見えないから先生の足手纏いになるのよ」
舞は、先生と結婚することなど、一瞬たりとも考えたことがないため、和歌子の言う意味が分からないため黙っていた。
「分かった!」
もし、反発したら、ここで居られなくなると思った舞は答えた。
「はい、わかりました」
日々、和歌子の厳しい監視の元で、舞は一生懸命に仕事をしていた。
二月下旬。
昨夜、大阪府全域が何十年ぶりかの大雪に見舞われ、白銀の世界になった。
だが、夜明けと共に雪は解けはじめ、舞が医院へ出掛ける頃は、道路の雪は雨水となって側溝に流れこんでいた。
舞は用心深く歩きながら、雪が溶ける速さや、背中に射す陽の暖かさ、そして、どこからともなく漂ってくる芳しい梅の薫りで、春の到来を感じていた。
舞は、和歌子の心が雪のように溶け、陽のように暖かくなってほしいと願いながら、出勤した。
和歌子は元々、世話好きの優しい女性だったので、人を苛めたことがなかった。
その和歌子が舞を苛め始めたのには訳があった。訳とは、亡き幸樹の母親から、幸樹のことをお願いしますと頼まれていた為に、根が真面目なだけに、少しでも幸樹の災いになると思うと、徹底的に排除したくなるのだ。
また和歌子は愛に弱い。それ故に、愛が偏ると、周りに迷惑をかけていても、それも気付かなくなるのだ。
医院に着いた早々、舞は、和歌子に辛く当たられていたが、電話がかかってきたために苛めから逃れられた。
和歌子が去った時。
「昨夜は大雪だったのに、いい天気になりましたね」
突然、忘れられない声が舞の耳に届いた。
(あっ、お兄さんの声が)
舞は、思わず、事務室の窓を開けた。
「そうですね、春が間近という感じですね」
二人の男は、表道路を歩きながら話していた。
(お兄さんが通っている)
舞は胸が詰るほどの衝撃を受けた。
(私は今の境遇をそれほど不幸とは思っていない。でも、お兄さんが見たら不幸だと思うかもしれない。私はお兄さんに不幸と思われたくない) 舞は飛び出して行きたいほどの衝動を必死に耐えた。
(でも、お兄さんに見つかったら)
外を歩くことが恐くなる舞だった。
(そうだわ、もし、見つかっても、お兄さんが見付けたのは和泉舞で、鷺草舞でないから、恐がることはないわ。いえ、和泉舞も見られたくない)
舞は、外を歩くときは、できるだけ幸樹に気付かれないよう、フード付の上着やコートを着るようにした。
舞が色々と考えているとき、幸樹はマスクを外し、近所の人と町内会のことについて話し合っていただ。
舞は、外の声に耳を傾けた。しかし、もう、声は聞こえてこなかった。
(逢いたい!)
舞は心の中で悲痛な叫び声を上げていた。
そして、電車の中で優しく抱いてくれた感覚が蘇ってきた。
(あの時は、お兄さんの声を聞き、驚きと嬉しさに、私は思わずお兄さんに抱きついて幸せに浸っていた。そして、私は鷺草舞です、今はとても幸せですと、言おうとしたときに、お兄さんに奥さんが居ることを知りました。お兄さん、私がどんなに辛くて悲しかったか知らないでしょう。でも、私は恨んでいません。だって、お兄さんに私が着飾った最後の姿を見て頂いた上に、私の目が見えなくなる寸前にお兄さんの姿をこの胸に焼き付けることが出来ました。これからの私は、浜辺のお兄さんと電車の中のお兄さんと何時も一緒に居られて幸せです)
哀しみを忘れさすように電話が鳴った。
「はい、彼方外科医院です」
電話は患者から、今から行くと、診察が終わるのは何時だとの問い合わせだった。
「はっきりと断定出来ませんが、一時間後になります」
電話の主は、じゃあ、すぐ行くと言って電話を切った。今日は月曜日だったので、多くの問い合わせがあり、それに対応している間に、早、昼の休憩時間になった。
舞は養母が作ってくれたお弁当を食べていると、幸樹が入ってきた。
「どうぞ、お入りください」