運命の彼方
「警察に被害届けを出しましょう」 和歌子が今、気付いたように言った。 「どうか、それはやめてください」 「なぜですか」
和歌子が尋ねると、
「何も取られていませんから」
「あんな悪い人を見逃すのですか」
「見逃したくありません。でも、警察やマスコミに聞かれるのが嫌なのです」
「先生、どうしましょう?」
幸樹は舞の心を推し量った。
(警察に届けたら、自分の不幸が知人に知られる、それを彼女は恐れているのかもしれない。もし、そうなら、僕にも知られたくないないと思っているかもれない。どちらにしても、僕と彼女の関係は、医師と患者で居るのが最良である)
舞が自分の声を知っているかもしれないと思った幸樹は、舞の前では、絶対にマスクを外さないようにしようと思った。
「和泉さんの気持ちよく分かるから、被害届けは、僕が舞さんの名前を出さずに、こんなことがあったと、警察に届け、舞さんの面倒にならないようにしょうと思っています。それでいいですか?」
「はい」
幸樹は、舞を自分の病院へ入院させたかったが、思ったより軽症で、一週間もすれば全快することが分かったので、舞を実家へ帰すことにした。
診察後、幸樹は舞を自宅へ送りと届けた。
和泉家には、誰も居なかったので、幸樹は三日後に診察にくるから、家にいるようにと言って帰った。
三日後、幸樹は和歌子と一緒に舞の往診に行った。
「先日は、舞の治療をした上に、今日も往診して頂いて、有難うございます」
舞の養母が挨拶した。
「いえ、通り合わせたものですから、お礼を言われるほどのことはしていません。それより、舞さんの様態は?」
「案外、軽症なのか、もう、歩いています」 「それは良かった。でも、油断すると危険ですよ」
「そうでしょうね、先生からよく注意してやってください。さあ、どうぞ、舞の部屋に案内いたします」
養母は幸樹を舞の部屋に案内した。 「来て頂いて有難うございます」 舞が見えぬ目で幸樹の顔を探す。 「どう、痛くない?」
「ええ、少し痛いけど、もう歩けます」
「無理したら悪化するから、痛い時には歩いてはいけないよ」
「はい、でも早く治りたいのです、何時になったら、以前のように歩けます」
「そうだね、半月ぐらいかな」
舞に無理をさせないため、多めに言った。
「半月も、私、そんなに待てないわ」
「待てない?、何を」
「一日も早く仕事がしたいのです」
「仕事」
「はい、先生に助けて頂いた時も、仕事を探しに行く途中だったんです」
こんな悲しいことに負けず、仕事がしたいという舞、幸樹は、哀れで舞の顔が正視できなくなった。
(みさき公園駅で、僕を見つめていたあの美しい目は、哀しみの始まりだったのか。虹は幸せを呼ぶ思っていた。その美しい虹の中に消えていったあなたが、不幸のどん底に落ちていたとは、なんと悲しいことなのか。僕は幸せへの別れだと辛さを堪えていたのに) 幸樹は、心の中で舞に誓った。
(今日から、僕が貴女の手足になります)
治療を終えた幸樹が言った。 「僕が仕事を探しましょうか」 「嬉しい、先生がお仕事を探してくれるのですか」
「よい仕事が見つかるかどうかは分からないけど、一生懸命、探してみます」
「わたしからもお願いします」
養母か平伏すようにして言った。
「でも、なぜ、そんなに仕事をしたいのですか」
「仕事には希望があり、生きているという感覚と、みんなと同じ世界に居る実感がするのです」
「分かりました、じゃあ、帰りますが、くれぐれも無理はだめですよ」
幸樹は舞の部屋を出ようとしたが、急に振り返って尋ねた。
「何か特技がありますか?」
「特にありませんので、今は指圧師の勉強をしています」 「じゃあ、目が見える時の仕事は何をしていました」
「病院で医療事務の仕事をしていました」 「医療事務、良かった、僕の医院で受け付けをしてください。無論、正規の受け付けではありません。僕や看護師は忙しい上に、昼の休診時間を利用し、患者さんの往診に出掛けているので、医院が不在になります。難しい仕事ではありません、ただ、かかってきた電話を受けるだけの仕事なので、目が不自由でもできると思います。そして、慣れたら、もっと難しい仕事をして頂くことになります。どうでしょう、来ていただけますか」
「はい、喜んでお仕事をさせて頂きます」
舞は嬉しさのあまり、飛び上がろうとした。
「あっ、痛い!」
「気を付けてくださいよ、僕は一日も早く勤務して欲しいと思っているんだから」
「はい、すみません」
舞が恥ずかしそうに俯いた。
「じゃあ、歩けるようになったら、何時でもきてください」
舞が涙を出して喜んだ。
「何から何までお世話して頂き、嬉しくて感謝の言葉を表せません。どうか、舞をよろしくお願いします」
養母が恐縮して言った。
「任せてください」
「ところで、先生がマスクをしているのは流感に罹っていられるのですか」
「そうなんですよ。医者の不用心でね」
幸樹が、マスクを外さなかったのは舞への配慮と、目が見えなかったり、歩くことが出来ない患者には、絶対に風邪を移してはならなと考え、例え、自分が風邪に罹っていなくても、マスクを外さないようにしていた。
なぜなら、健常者より、何倍、否、比べられない程の苦痛を受けると考えたからだ。
しかし、これからは、舞に正体を感付かれないために、一層、マスクを外すことが出来なくなった。
一週後、舞が病院へ来た。
「よく来てくれたね、さあ、貴方の事務室に案内しますからね」
幸樹は、舞の為に作った事務室へ案内した。
この事務室は、診察室と看護師や患者の受け付け室と簡単に連絡が取れるようになっていた。
「ここが貴方の事務室、誰も入ってこないから、気楽にしていてください。もし、電話がかかってきたら、用件を聞き、分からなかったら、診察室や受け付けの電話に繋げてください」
「分かりました」
「勤務時間は、朝の九時から夕方五時迄です。休憩は、十二時から十三時までですが、適当に休憩を取ってください」
「そんな簡単なお仕事だけですか」
「最初はね、でも、段々難しくなりますよ。音を上げるのであれば今ですよ」