運命の彼方
「先生、警察を呼びましょうか」
と和歌子か幸樹に尋ねた。
「そうだね、これ以上、診療の邪魔をしたら、警察を呼ぶからね」
「呼ぶのなら呼びなさいよ、喚いて評判を悪くしてあげるわ、覚悟しなさい」
警察を呼ぶと、患者の診療を出来なくなるため、幸樹は、不本意ながら、早苗の求めに応じることにした。
「分かった、診療が終われば話を聞くから、応接間で待っていてくれ。和歌子さん、悪いが、この女性を応接室へ案内してくれないか」
「警察に突き出したらいいのに」
和歌子は不満そうに言ってから、早苗を応接室へ連れていった。
診察を終えた幸樹が行くなり、早苗が声を震わせながら言った。
「なぜ、私に隠れて引っ越ししたの!」
「隠した訳ではない。患者が来なくなり、病院経営が成り立たなくなったからだ。まして、君は僕と何の関わりもないから、引っ越しを通知する義務はないよ」
「違うでしょう、私に慰謝料を払うのが嫌で引っ越しをしたんでしょう」
「慰謝料?、何の慰謝料だ!」
腹が立てた幸樹は、語気を強めて聞いた。
「離婚の慰謝料よ」
「馬鹿をいうな、僕に払う義務はないよ」
「でも、貴方が離婚を言い出したんでしょう」
「当然だろう、僕の大切な子供を殺したんだから」
「確かに殺したわ、でも、それを理由に私は離婚を強要され、恐くなったから離婚に同意したのよ」
自分のした事を棚に上げ、幸樹を脅迫した。
「よくもそんな嘘が言えるね。何と言われても、慰謝料を払う気持ちはないからね」
「裁判に訴えても慰謝料を取ってみせるわ」
早苗のあまりにも勝手な言い分に怒った幸樹が言った。
「勝手にしろ」
「ええ、勝手にするわ。今度、来るときには弁護士同伴よ、覚悟していなさい」
言うと、早苗は帰っていった。
険悪な二人の様子を見ていた和歌子は、早苗が帰ると、誰かに電話していたが、終わると興奮した顔をして幸樹に言った。
「驚かないでね、早苗さんは会社をリストラされたそうよ」
「まさか、あの早苗が」
「ええ、三年前にリストラされたのよ、それも一番に、よほど、評判が悪かったのね」 「リストラか、あれほど会社に忠実だった彼女がね、その欝憤を僕で晴らそうとしているのだろうか、可哀相に」
「だめ、また、お人好しになる。早苗さんは、それほど善人ではありません。女は女をよく見えるから、分かるのよ。もう、関わらないでください」
「分かったよ」
早苗の後ろ姿を見ていると、急に哀れになってきた。 (多くは出来ないが、慰謝料をあげよう、もう、哀れな人を見るのは懲り懲りだ)
翌日、幸樹は早苗の口座に現金を振込んだ。 約束の十年も後、約半年となった十二月。
北風に粉雪が舞う寒い午後、泉佐野駅に通じる道は人一人通らず、道の両側に立ち並ぶ様々な様式の民家は全て、門戸を閉ざし、人の気配さえ感じさせない。
その冷え冷えとした道の歩道に、白い杖をついた若い女性が歩いていた。どうやら、和泉佐野駅へ向かっているようだ。
女性か一軒の民家の前を通り過ぎた時、その民家の中から女性の声がした。
「今日は、寒いのに往診して頂いて、有難うございました」
すると、男が労わるように言った。
「また、来週もきますからね。もし、痛むようなら電話してください」
「そうよ、必ず、電話してくださいね」
念を押すように言った看護士らしい女性がドアを開け、
「先生、帰りましょう」
「じゃあ、お大事に」
と先生らしき男が外へ出ると、看護士らしい女性がドアを閉めた。
男は医師の幸樹、女性は看護士の和歌子で、この家に住んでいる足の不自由な患者の往診に来ていたのだ。
「寒い!」
和歌子が悲鳴を上げた。
その時、バイクが猛スピードで和歌子の横を通り過ぎようとした。
「危ない!」
幸樹が和歌子の腕を持ち歩道に引き上げた。
和歌子が恐そうな顔で、急にスピードを落として走るバイクを見ていたが、
「あのバイクはひったくり犯かも知れないから、気をつけなさい!」
五十メートルほど先を歩いて行く女性に大声で注意した。
バイクは一気にスピートを落とすと、女性に近付いた。しかし、風が逆風だったので、和歌子の声が女性に聞こえなかった。
バイクは女性に近寄ると、女性のバックに手を伸ばし、バックを掴んだ。女性は引きずられるように倒れたがバックを離さなかった。
バイクの若者は、バイクを停め、女性のバックを奪おうとしたが、ひったくり犯よ、皆さん出て来てくださいと叫びながら走ってくる和歌子と幸樹の姿に気付き、急いで、バイクに乗って逃走した。
幸樹と和歌子は、女性のところへ駆け付けた。
「怪我ないですか」
和歌子が女性に声をかけながら助け起こそうとした。
「はい」
答えた女性は立ち上がろうとしたが、
「痛い!」
と言って、倒れた。
「怪我をしているようだね」
幸樹がマスク越しに言った。
「そうらしいわ、先生、診てあげてください」
「じゃあ、足を診せてもらうよ」
幸樹が手慣れた仕草で足を診察した。
「足首の捻挫ですね」
と恐怖と寒さに震える女性の顔を見た。
「あなたは…」
驚いたように言ったが、その後の言葉がでない。
女性は、名前を聞かれたと思い、自分の名前を名乗った。
「はい、和泉舞です」
マスクをしていなかったら、舞は、先生が自分の心の支えであるお兄さんであることを声で知っただろう。だが、痛さも加わり気付かなかった。
「お気の毒ですが、捻挫しているようですね、治療しますから、僕の医院に来ますか、それとも、救急車で大病院へいきますか」
「できたら、先生の治療を受けたいです」
舞が医師の顔を見た。だが、舞は医師が幸樹とも分からず、見えない目で、人を探すよに目をあらぬ方へ向けていた。
(なんて哀れな、別れの原因は、目が見えなくなったせいだったんだ)
幸樹は可哀相で、涙を止めることができなかった。だが、マスクをしていたので和歌子には気付かれなかった。
「もしかしたら、お目が悪いのでは」
辛さを堪えて尋ねた。
「はい」
「いつからですか」
「昨年からです」
辛い再会に、幸樹は心で泣いた。 幸樹が辛さを堪えながら言った。
「少し我慢してください」
言うと幸樹は舞を抱き上げた。
「何をするんですか!」
舞が驚いたように言った
「僕の車までお連れするんです」
舞は、恥ずかしそうに身体を硬くしたが、幸樹に従った。