欠片
「そうだろうな。……規則違反だが、この場合は仕方あるまい。……君は本当に苦労してきたのだな」
規則違反を叱られなかったことに、内心で驚いていた。ロートリンゲン大将はワインをまた一口飲んでから言った。
「君のような子を救えるよう、何か手立てを講じる必要はあるのだろうな。そういうことがあるとは話には聞いていたが、実際聞いたのは初めてだ」
ロートリンゲン大将は何か考え込むような表情をする。この人は利益をあげるためだけに動いている訳ではないのだろう。潤沢な財産をただ殖やそうとしている訳ではないのかもしれない。
「……閣下にお願いしたいことがございます」
この時、漸く切り出した。鞄のなかから身元引受人の書類を取り出して、ロートリンゲン大将の前に差し出す。
「閣下に私の身元引受人となっていただきたいのです。……実は叔父夫婦に私の所属が知れたのは、私が身元引受人に叔父の名を書いていたためです。やってはならないと解っていながらも、署名は私自身が施して提出しました。まさか、叔父夫婦が職場まで乗り込んでくると思わなかったのです」
「……身元引受人か。確かにこの制度は君を悩ませただろう」
ロートリンゲン大将は徐に胸元からペンを取り出した。そして、引受人欄に名前と連絡先を書き付ける。
俺が思っていた以上に、ロートリンゲン大将はあっさりと引き受けてくれた。
「こういう万一の事態が起こらないことを願いたいものだが……。この書類、君もコピーを取って、それから明日、私に原本を提出しなさい。変更手続きは済ませておこう」
「良いのですか……? 閣下」
「君の事情を聞けば、引き受けない訳にはいかないだろう。それに君が嘘を言っているとも私には思えなくてな。……それから、この遺書によると自宅は君の名義なのだろう?」
「あ……、はい」
「法廷で争えば、君に利がある筈だ。もしそれを考えているなら、弁護士を用意するからいつでも言いなさい」
これには驚いた。俺は自宅のことは既に諦めていた。何よりも叔父夫婦から離れることが第一だったから――。
「ありがとうございます。ですが閣下、私は自宅は無きものと思っているのです」
「しかし、御両親との思い出もあるだろう?」
「両親と過ごした時間よりも、叔父夫婦との辛い時間の方が長いせいか、あまり良い思い出がないのです。今は寮生活で充分ですし、不便も感じていません」
ロートリンゲン大将は遺書を俺の方に返しながら、苦笑した。
「どうやら君は私の思っていた通りの男のようだ。……今日、色々話を聞いて、納得した。穏やかそうに見えて気骨があるし、叱られてへこたれるような男でもない。かといって、反抗心がある訳でもないから昨今では珍しい人材だと思っていたのだが……」
ロートリンゲン大将はワインを飲み、それからウェイターを呼びつけて、メニューを所望した。メニューを見ても聞いたことのないような料理ばかりが並んでいて、結局、ロートリンゲン大将と同じ物を選ぶことにした。
注文を受けてからウェイターが去っていくと、ロートリンゲン大将はまたワインを飲んだ。
「君は仕事に対して真面目に取り組むうえに、向学心がある。今後も期待して良いな?」
「あ……。ありがとうございます。なるべく早く仕事を覚えたいと思っています」
初めて誉められた。おそらく俺の人生のなかで数えるほどしかそのような機会は無かった。この人の期待に応えたい――そうとさえ思った。
「再来月に昇級試験を受けなさい。少佐では出来ることが限られる。早く昇級し、君には指揮官となってほしい」
昇級試験――?
驚いて、咄嗟に言葉が返せなかった。
「私……が、昇級試験を受けるのですか……?」
聞き返すと、ロートリンゲン大将は頷いて、優秀な人材だからなと返した。
「特務派の隊を指揮できるような人材を育成したいと人事課に申請して、新人としてやって来たのが君だ。確かに体技にも優れ、用兵の知識も身につけている。私としてはもう少し時間がかかることも覚悟していたのなら、君なら即戦力になりそうだ」
叱られることは覚悟していても、まさか昇級を持ちかけられるとは予想していなかった。勿論、昇級を望まないではないが、俺の周囲にはまだ多くの少佐が居る。このままこの話を受けてしまっては、隊の調和を乱すことになるのではないだろうか――。
「評価をありがとうございます。閣下。……ですが、私はまだ少佐として下積みをしたほうが良いのではないかと思っております」
まだ所属して半年しか経っていない。俺は別に焦ってもいない。下積みが長ければ、周囲との信頼関係も築くことが出来る。昇級はまだ少し先で良い――俺はそう思った。
「……普通、喜んで試験を受けるものだぞ」
呆気に取られた表情で、ロートリンゲン大将は言った。
「私がもう何年も閣下の許に所属しているのなら、ひとつ返事でお受けしました。ですが、まだ半年です。私の知らないことも多いですし、隊の調和も乱れてしまいます」
「隊の調和を考えていたら、いつまで経っても昇級出来んぞ」
「暫くはこのままで勉強したいのです、閣下」
「……解った。では君の意見を尊重しよう。昇級しようと思った時には私の部屋に来なさい」
「ありがとうございます。閣下」
話が一旦切れたところで、料理が運ばれてくる。どの料理も見た目が鮮やかで、食べたこともないようなものばかりだった。ロートリンゲン大将との食事は緊張したが、居心地の悪いものでもなかった。
会話のなかで、先日の叔父夫婦のことも問われ、全てを語った。20ターラーの仕送りを求められたことを告げると、ロートリンゲン大将は非常に驚いて、そしてすぐに言い放った。
「君がそのように仕送りする義務は無い。それともその叔父夫妻は経済的に困っているのか?」
「……叔父も叔母も働くことより遊ぶことを優先していた人達ですから、もしかしたら金銭的に困難な状況となっているのかもしれません」
「病身という訳ではないのだろう?」
「ええ。健康体ですが、働くことが好きではなくて……」
「では尚更、君が面倒を見る必要は無い。彼等が老いて動けなくなった時にはそうしたことも必要になるかもしれんが……。当座のところははっきりと断りなさい。それから君が拒んでも彼等が執拗に求めてくるようだったら、私に言いなさい。聞く限りでは君の問題は第三者が介入したほうが良さそうだ」
強い味方を得たような気分だった。ジャンやジャンのお母さんにも大分世話になってきた。その二人に加え、上官であるロートリンゲン大将からもこんな風に言ってもらえるとは――。
「ありがとうございます。閣下」
「君は無用な心配はせず、今は仕事を頑張りなさい」
頑張ってね、ノーマン――。
不意に母の言葉と重なった。それはあまりに突然のことで――。
目頭が急に熱くなり、耐えきれなくなった。
「す、すみません……!」
涙が止まらなかった。子供でもないのに――。
子供の頃、二度と泣くまいと自分自身に誓ったのに。どんなに悲しくても耐えようと――。
ああ、違う。
俺は嬉しくて、ロートリンゲン大将の言葉があまりに嬉しくて、泣いてるんだ――。