欠片
「昇級試験も重なっていたからな。だが、昇級とほぼ同時とは良いことが重なったではないか」
ウェイターがやって来てグラスにワインを注いでいく。ロートリンゲン大将は婚約を祝して乾杯してくれた。
「……ところで、君達の結婚のことはまだ皆の知らぬことだったのか? 実は今日、参謀本部でフォーク准尉の話題が上がって、私はうっかり君達の結婚のことを話してしまった」
フォイルナー中将も驚いていたのだが――と、ロートリンゲン大将は申し訳なさそうに告げる。
「結婚式の日程が決まるまでは沈黙を通していたのです。フォイルナー中将閣下にも近いうちに招待状をお渡ししますので、構いませんよ、閣下」
「明日は少々、身辺が騒がしいかもしれんぞ」
おそらくそうなるだろう。カレンと顔を見合わせて笑った。すると、ロートリンゲン大将が微笑して言った。
「事務局のフォーク准尉というと、若手達の憧れの的だからな。ザカ准将が射止めていたことに驚いたが……。しかし、フォーク准尉も眼が高い。ザカ准将は良い男だ。きっと良い家庭を築くだろう」
ロートリンゲン大将はそう言ってくれた。私でも良い家庭を築ける――そう後押ししてくれたようにも思えた。
久々にロートリンゲン大将と歓談した。気難しい方との評判もあるが、話すと気さくな方だとよく解る。カレンもそう思ったのだろう。はじめの固い表情は消え、穏やかな表情で話していた。
「ザカ准将。入籍したら、身元引受人の変更届を出しなさい」
「あ、はい」
「無論、困った時にはいつでも頼りなさい。……昨今では何事も無いか?」
ロートリンゲン大将は必ずこうして私のことを心配してくれる。それはとてもありがたかった。
「養子を解消してからは何の連絡もありません。結婚のことも伝えていないので、もうこのまま会うこともないでしょう」
そうだな――ロートリンゲン大将は頷いた。叔父夫婦も私のことは忘れ、今は静かに暮らしていることだろう。
二時間程、食事をしながら語り合った。ロートリンゲン大将を見送ってから、カレンをアパートまで送り、そして私は寮へと戻った。
明日から出張に出なければならなかった。その準備をしなくてはならない。カレンダーを見遣ると、結婚式の日に印が付いている。もうじき家族が出来るのだな――そう考えると、感慨深くなるものだった。
結婚式の前に住居を決めておいた。新築ではないが少し広めのアパートで、軍本部から地下鉄で二十分のところにある。挙式の二週間前に寮を出て、其方に移った時には、同僚達に散々冷やかされたものだった。
仕事に引越に式の準備――全てが一度に重なって、朝から晩まで忙しい日々が続いていた。家のなかが漸く片付いた頃には、結婚式当日となっていた。
「おはよう。カレン」
いつもより起床の早い朝を迎えた。嬉しいような気恥ずかしいような気分だった。家族――私がずっと焦がれていたものを漸く手に入れることへの高揚感、同時に背を正したくなるような緊張感、その二つが合わさっていた。
身支度を整えて、二人でアパートを出る。アパートへの居住を決めた時に購入した車に乗り込み、今日のことを確認しながら式場へと向かう。三十分程で到着して、側にある駐車場に車を置き、二人で歩き始めた。
「ねえ、ノーマン。次の休暇には貴方のご両親のお墓参りに行かない?」
カレンが私を見上げて提案する。それは私自身も考えていたことだった。
「同じことを考えていた。カレンの両親にも報告しないとな」
カレンは嬉しそうに頷く。教会の門が見えてくる。数人が其処で何か話しているようだった。今日の挙式は私達一組だけだと言っていたが――。
中肉中背の白髪の男、茶の髪をひとつに束ねた女性――その背格好を見て、ぞくりと悪寒が走った。
「門のあたりが騒がしいわね。どうしたのかしら……?」
間違いない。
間違いない。叔父と叔母だ。何故、此処に居るのか――。
私の結婚に気付いた――? 縁を切った筈なのに、何故――?
足が竦む。駄目だ。いつまで私は過去に捕らわれるつもりだ。立ち向かわなくては駄目だ。
もう私は一人ではない。カレンが――妻が居るのだから。
それにカレンに――妻となる彼女に、みっともない姿を見せたくない。
「……ノーマン!」
叔父が此方に気付いて名を呼ぶ。心臓を鷲掴みにされたかのようだった。全身が縛り付けられたかのように強ばる。震え始める。落ち着け――何度も自分に言い聞かせる。
もう過去のことだ。捕らわれるな。
いつまで、脅えを続ける気だ。
私には守るべきものがあるではないか。
「何という恩知らずだ! 結婚の報せひとつも寄越さないで……! そいつが嫁か?」
ノーマンのような薄情な男では先が思いやられるだろうな、と叔父は嘲笑しながら言った。そいつは養親を平気で見捨てた男だぞ――叔父はカレンに向かって私を愚弄し続ける。
「……お帰り下さい。私は貴方達とは縁を切りました。金輪際、私達に近付かないでください」
息を吸って、胸の鼓動を抑えながら何とか言い放つ。その叔父の周囲を黒い服を纏った男達が取り囲む。私に近付こうとするのを男達に阻まれる。そしてその男達が叔父達を私から遠ざけていく。
「ノーマン! 私達の恩を忘れたとは言わせないよ! 子供の頃に引き取ってやったのにこの恩知らず!」
叔母が叫ぶ。声が耳を通過して頭に直接響いてくる。邪魔な子だね――叔母から何度となく放たれた言葉が頭のなかで木霊する。過去が脳裏に蘇ってくる。
落ち着け――。
自分自身に言い聞かせる。ゆっくり息を吸う。
ああ、でも――。
以前とは違う。もう落ち着いてきた。身体の硬直も直った。以前、同じように出くわした時は恐怖で立てなくなったのに――。
この時になって気付いた。カレンが確りと私の手を握っていてくれていた。其処から伝わる温もりが、私の心を落ち着かせていたのか――。
もう大丈夫――。
カレンの手を握り返す。
大丈夫だ。もう恐怖は去っていた。今、胸の中にあるのは恐怖ではない。確りしなくてはならないという責任感だけだ。
罵声が徐々に遠くなる。いつのまに呼んだのか警察官が駆け付けた。二人の姿が完全に見えなくなると、カレンは私を見上げて言った。
「ノーマン……」
「大丈夫だ。怖い思いをさせたな」
「私は大丈夫。ノーマンこそ大丈夫……? あの二人に酷い目に遭わされたのでしょう?」
「君が側に居てくれたから、あまり怖いとも思わなかったようだ」
後に知ったことだが、黒服の男達はロートリンゲン大将に命じられて、この付近一帯を警戒していたとのことだった。警察から聞いた話によれば、叔父夫婦は私達のことを探偵を使って調べたらしい。絶縁したにも関わらず執拗に追いかけてきたことで、叔父夫婦は罪に問われることになった。
結婚式は恙なく進められた。互いの知人や上官達に囲まれながら、私達は誓い合った。その証人となってくれたのはジャンだった。
ジャンは急遽出張に発つことになっていたが、それにも関わらず、証人を務めてくれた。尤も、式が終わるとすぐに出掛けていった。礼を告げる間もないぐらいで、ジャンには本当に頭が上がらなくなった。