欠片
「まったくこんな日ぐらい、誰かが代わっても良さそうなものだが」
ジャンが出張に行ったことを知ったロートリンゲン大将が私の前でそう言ってから、私達に向き直った。
「ザカ准将、そしてザカ夫人。改めておめでとう」
ロートリンゲン大将の隣には夫人も居た。アルベルト大将やフォイルナー中将も夫人と共に出席してくれた。そればかりか、ジャンのお母さんも遠いリヨンから駆け付けてくれた。結婚を非常に喜んでくれた。
「ジャンもノーマン君のように早く素敵な女性を見付けてくれたら良いのだけどねえ」
「ジャンは良い男だから必ず素敵な女性が現れますよ」
この日は帝都の有名なホテルに泊まった。カレンも私も疲れ切っていたが、言いようのない幸福感に包まれていた。気付けば、今朝の叔父達のことも頭の片隅に追いやっていた。
私は叔父達の呪縛から漸く解き放たれたのかもしれない。過去の辛い思い出はもう忘れてしまっても良いだろう。そしてこれからは、先のことに眼を向けなければ――。
結婚してからも、カレンは仕事を続けた。私は相変わらず仕事に追われていた。周囲の将官達に雑用を任される日々で、帰宅は毎日遅かった。しかし、カレンはそんな私をいつも暖かく迎えてくれた。
「お帰りなさい」
嘗て母がかけてくれた言葉と同じ言葉は、疲れをも吹き飛ばしてくれる。
准将として三年目が経とうとしていた頃も、忙しさに追われる毎日を過ごしていた。ジャンも同様だった。そんなジャンを家に招くこともあった。仕事のことを何も憚らずに語り合える唯一の友だった。
「少尉に昇級?」
結婚して二年が経った頃、カレンに昇級の話が持ち上がった。仕事を終えて帰宅し、カレンと食事を摂った後、カレンが切り出したのだった。
「昇級の話を頂けたのは嬉しいけれど、悩んでいるの。少尉となると出張が課せられるようになるから……。貴方が忙しいのに、私まで忙しくなると生活がすれ違ってしまいそうで……」
カレンは繁忙期でなければ定時に帰宅できる。私はといえば、毎日の帰宅が早くとも九時十時で、日付が変わってから帰宅することも頻繁で、さらに出張も多い。このうえカレンの仕事が増えたら、確かに生活がすれ違ってしまうかもしれない。
「そうだな……。私がもう少し時間的余裕があれば、カレンの背を押すのだが……。しかし、だからといって昇級するなとも言いたくないな。君の自由を奪ってしまいそうで」
率直な気持ちを告げたところ、カレンは頷いて笑んだ。もう少し考えてみるとカレンは言った。それから一週間後のことだった。
ジェノヴァ支部へ出張し、その日は本部に戻らず帰宅した。いつもより早い帰宅だったが、カレンは既に帰宅していて、玄関で私を待ち受けていた。
「お帰りなさい。ノーマン」
いつも以上に明るい様子に、何か良いことがあったのか問い掛けると、ええ――とカレンは応えた。
「もしかして昇級の件か?」
「いいえ。昇級は諦めることにしたの」
「……本当に良いのか? 私のことなら構わず……」
「私、軍を辞めるわ」
「カレン……?」
何かあったのだろうか――それにしてはカレンは明るく振る舞っていた。否、もしかしたら気を遣わせまいとしているのかもしれない。
「先に事情を聞こう。軍を辞めるというのはもう少し考えてからでも……」
「ノーマン。私ね、子供が出来たの」
瞬間、何も考えられなくなった。頭が真っ白になった。
予想していない言葉に驚いてしまって――。
「ここ数日体調が悪くて、もしかして――と思って検査したら、妊娠の反応が出たの。今日は仕事を休んで病院に行ってきたわ。六週目ですって」
カレンは腹に手を置いて嬉しそうに笑んだ。
子供が出来た――。
私とカレンの子が――。
「不思議なもので、妊娠が解ってからすぐに昇級は止めようって思ったの。身体に負担をかけたくないし、それに子供と過ごす時間を増やしたい。私、仕事と家庭を両立させようとずっと思っていたのにね」
「カレン……」
堪らずカレンを抱き締める。否、カレンだけではない。カレンの身体に宿った命をもこうして抱き締めているのだろう。
嬉しかった。
嬉しくて、言葉にならなかった――。
家族が増える――それはずっと孤独で過ごしてきた私には嬉しさに余りあるほどで――。
妊娠発覚から三ヶ月後、カレンは軍を退職した。上司や同僚達が随分引き止めたらしい。産休や育休を使用することも提案されたようだった。
だが、カレンの意志は固かった。せめて子供の幼いうちは一緒に過ごしたい――そう言って、辞職した。
月を追うごとに、カレンの腹は大きくなっていった。触れると動くのを感じることもあり、私もカレン以上に子供の誕生を待ち詫びた。出張のたびにカレンの身を案じた。何かあればすぐに病院に行くように――何度もそう言った。
そして予定日三日前の11月29日――この日はいつもより早く帰宅出来た。夕食を摂ったからソファの定位置に座り、カレンと話をしていたところ、陣痛が始まった。苦しむカレンを励ましながら、子供を産むということの大変さに改めて気付かされた。この苦しみを私の母も味わったのだろう。父もこうして今の私のように母に付き添っていたのだろうか。そうして生まれ出た子を置いて先に逝くのはどれほど辛かっただろう――。
『私はこの子を置いて死ねないんです……!』
幼い頃の母の声が蘇る。その気持ちを今、改めて知った。
日付が変わり、夜が明ける頃になって産声が上がった。元気な男の子だった。カレンは子供を抱きながら泣いていた。溢れんばかりの嬉しさと安堵、そしておそらくはカレンも両親のことを想っていたのだろう。
この時から、私は父となった。守るべき家族が増えた。
新たに家族となったこの子を、私達はウィリーと名付けた。