欠片
「ジャン……。家庭を持つことを考えた時に、私の過去が足枷になるだろうことは以前から悩んできたことだ。虐待を受けた育った者は自分の子も虐待すると言う。自分自身もそうなるかと思うと怖くて、求婚を先延ばしにしてきた」
「ザカ大佐。自分も子供を支配下に置きたいと思っていますか?」
「とんでもない。あのような経験は私だけで充分だ。だが、私にその意志がなくとも、無意識のうちに暴力を振るってしまうかもしれないと思うと……」
「ザカ大佐が暴力を振るうとは思いませんよ。過去の経験を憎み、恐れているからこそ、ザカ大佐には自制心がある」
「ジャン……」
「ザカ大佐が手を挙げた――と万一にでも聞いたら、俺が止めに行きますよ。だから、ザカ大佐。カレンの前で約束してあげてください。家庭内に暴力は絶対に持ち込まない――と。これはザカ大佐の意志でもあるのでしょう? カレンにそれを伝えてあげないと……」
私は彼女が私の過去を受け入れてくれるかどうか、そのことばかり気に掛けていた。私がどうしたいのか――大切なことを告げていなかった。今、そのことに気付いた。
「暴力は絶対に振るわない。約束する」
カレンは顔を上げ、私を見つめる。私の言葉を確かめているかのようだった。
「ザカ大佐はこれまで一度も手を挙げたことがない。理不尽なことをした叔父夫妻に対してもね。カレン、君に対してもそうしたことはなかっただろう?」
「ええ……。だから話を聞いたとき、とても驚いたの。まさかそんな過去があったとは思わなかったから……」
カレンは視線を落とす。悩むかのように、一点を見つめていた。
「ザカ大佐は君のことを大切に想っているから、君に暴力を振るうことはないよ。それは俺が保証する。俺は士官学校からの付き合いだけど、ザカ大佐は穏やかで声を荒げたことすらない」
カレンは再び私を見た。その眼が少し潤んでいた。
「本当に、約束してくれる……?」
「約束する。……必ず約束を守る。君を不幸な目に遭わせない」
過去に囚われすぎだ――そう言ったジャンの言葉が、この時理解出来た。私が意志を強く持ちさえすれば――叔父のようにはならないと強く心に決めていれば――、たとえ私の中に暴力性が眠っているのだとしても、それを永遠に封じることが出来るかもしれない。
先のことなど解らないから、今の私はそれを信じることしか出来ない。だがそれは、私自身がそうと信じることは、重要なことだ。
「もう一度言う。……私と結婚してくれないか? カレン」
カレンは私を見つめた。その眼からぽろりと涙が零れ出す。溢れ出す涙を拭いながら、彼女は笑みを浮かべた。
はい――短くも確かに彼女はそう言ってくれた。
堪らず彼女の身体を抱き締める。嬉しかった。否、そんな一言では言い表せないほど、舞い上がってしまいそうなほど嬉しかった。ありがとう――カレンを抱き締めながら告げた時、視界にジャンの姿が映った。傍と我に返った。
店内であること、ジャンがすぐ側に居ることを忘れていた。ジャンは笑みを浮かべながら、そっと立ち上がる。
「お先に失礼します。あとはごゆっくり」
「……ありがとう、ジャン」
ジャンには礼を言い尽くせなかった。
私とカレンは正式に婚約した。そしてそれを理由に、カレンはパリ支部への異動を断った。事務局内や他局での衆目が集まるとのことで、相手の名前――私のことは当分、伏せておくことにした。元々、カレンは本部内では珍しく若い女性であり、目立つ存在だったから、交際を求めてくる軍人達も多かった。そのため、彼女が婚約指輪を身につけるようになると、軍務局内でも落胆の声が聞こえてきた。誰が彼女を射止めたのだろう、他省の人間だろうか――そんな言葉を耳にすることもあった。
婚約してまもなく、私は昇級試験を受けた。将官となるのは当分先だと思っていたから、この昇級は意外なことだった。多忙ななかでの試験だったが、無事、准将となることが出来た。そして准将となってから、本格的に結婚式の準備も開始させた。
「ノーマン。挙式のあとのパーティはレストランで構わない? 素敵なところがあるのだけど……」
「ああ。カレン側の招待客は? 事務局が中心か?」
「そうね。あとは大学時代の友人を五人ほど」
「解った。それからカレン、招待状を渡した後で君にも会ってもらいたい方が居るんだ」
「あら。どなた?」
「ロートリンゲン大将閣下に。二人で挨拶をしておきたい」
ロートリンゲン大将は私が困っている時には必ず手を差し伸べてくれた方だった。本当はもっと早い段階で婚約したことを報せたかったが、なかなか時間が作れずに居た。私が結婚することを知ったら、ロートリンゲン大将はきっと喜んでくれるだろう。
閑静な住宅街の奥に佇む洋館は、名の知れたレストランで、ロートリンゲン大将がよく利用するところでもある。先日、結婚式の招待状を渡すために、ロートリンゲン大将の執務室に出向いたところ、ちょうどジャンと出くわした。ジャンは先月、ロートリンゲン大将と国際会議に向かう途中の機内で知り合った。ロートリンゲン大将はジャンの能力を高く評価したようで、それからは時々、ロートリンゲン大将に呼び出されているらしい。この時もそうだった。
『君達は親しいのか……?』
話の中で、ジャンとは親しいことを告げると、ロートリンゲン大将は非常に驚いていた。その場で結婚することを伝え、招待状を渡した。ロートリンゲン大将はさらに驚かれた。
『君が結婚か……。突然で驚いたが……、いや、何よりもまずはおめでとう』
喜んで祝福してくれた。カレンと共に挨拶をしたいことを伝えると、ロートリンゲン大将はこのレストランで会う予定を組んでくれたのだった。
「緊張するわ」
レストランの個室を予約してくれたのはロートリンゲン大将だった。約束の時間より少し早く到着してロートリンゲン大将を待っていたところ、カレンが落ち着かない様子で私に言った。
「閣下にお会いしたことはあるのだろう?」
「二、三度だけよ。それも書類を受け取りに行ってお会いしただけ。天と地ほどの階級差があるから、滅多なことでお会いできる方ではないわ」
「親切な良い方だ。……今、言われて気付いたが、私も入省当初はカレンと同じように考えていたな」
そう話してカレンの緊張を解していたところへ、足音が聞こえてくる。扉がノックされ、ウェイターが扉を開けた。立ち上がって敬礼すると、不要だとロートリンゲン大将は笑って言った。
「妻と共に来る予定だったが、長男が体調を崩してしまってな。妻には君のことをよく話していたから、是非祝福したいと言っていたのだが……」
「いいえ。お時間を割いていただき、どうもありがとうございます。閣下、まずは紹介申し上げます。婚約者のカレン・フォーク准尉です」
隣のカレンを紹介すると、ロートリンゲン大将は穏やかな笑みを浮かべ、手を差し出した。カレンと握手を交わし、そして席に着く。
「このたびはおめでとう。ザカ准将、フォーク准尉」
「ありがとうございます。婚約したときに閣下にお知らせするつもりだったのですが、なかなか時間が取れず、招待状と同時になってしまいました」