欠片
「ああ。私が承諾さえすれば構わない。そうしておくか?」
「はい。宜しくお願いします」
後程事務局に連絡しておこう――ロートリンゲン大将はそう言って頷いた。
翌月、私は海軍部軍務局に異動した。予想はしていたが、ロートリンゲン大将の部隊に所属していた私への風当たりは強かった。誰も担当したがらない雑務を押しつけられたり、直属の上官にあたるバリッシュ少将が犯したミスを責任転嫁されることもあった。これまでのロートリンゲン大将の許の将官達と異なり、人を陥れたり責任を逃れたりする将官が多くなった。そうした彼等に辟易しながらも、耐えられない程ではなかった。叔父夫婦との日々を考えれば、この程度のことは生温いものだった。上官達から嫌味を言われることもあったが、軽く受け流すことで対応し、一方で仕事を憶えていった。ロートリンゲン大将は何度か廊下で出会ったが、私が上官と一緒に居るときは声をかけられることはなかった。私の海軍部での立場を考慮してのことだろう。そうしたこともあってか、私はロートリンゲン大将の不興を買ったために異動させられたのだと、まことしやかに囁かれるようになった。この奇妙な噂のおかげで、海軍部の上官達が次第に態度を軟化させてきた。
だが実際は、私は時折、ロートリンゲン大将と会っていた。軍本部から離れたレストランで食事をしたり、アルベルト中将やフォイルナー少将との食事会に同席することもあった。
「困ったことがあったら何でも言いなさい」
ロートリンゲン大将は常に私を気に掛けてくれた。親のいない私にとってはその気遣いが本当に嬉しかったし、その言葉を励みに頑張ることが出来た。
海軍部に転属となって一年が経つ頃には、仕事も軌道に乗り出した。仕事が多忙すぎて、ジャンに連絡を取る回数も少なくなっていた一方で、雑務を一手に担っていたため、事務部のフォーク准尉とは頻繁に顔を合わせるようになった。親しく言葉を交わすようになり、私自身が彼女の明るさに吸い寄せられるように惹かれていった。
食事に誘ってみよう――そう決意して漸くそれが実行に至ったのが今日のことだった。忙しさも相俟って休日らしい休日が取れなかったことも一因だったが、これまで経験のないことに勇気も必要だった。昼を過ぎたあたりに書類を提出しに行くと、決まって彼女以外は誰も居なくなる。その時間を狙って事務局に行った。彼女はいつも通り、笑みでもって迎えてくれ、書類を受け取った後、僅かな時間の談笑を楽しむ。
「……フォーク准尉。今週の日曜日は空いているかな? 食事に誘いたいのだが……」
勇気を出してそう告げると、フォーク准尉は一瞬眼を見張ったものの、微笑して頷いてくれた。
「はい」
天にも昇る思いだった。女性の好みそうなレストランを調べて予約し、日曜日を待った。この週はどれほど理不尽なことを命じられても億劫には感じなかった。
そして日曜日、フォーク准尉とはじめて食事をした。軍服とは違う普段着のフォーク准尉はとても可愛らしく見えて、居ても立っても堪らなくなり、交際を申し込んだ。後から考えれば、咄嗟の行動だったようにも思える。軍のなかでも彼女は皆の注目の的だったから、誰とも付き合っている様子の無い今を逃したら、誰かに先を越されてしまいそうだと焦っていた。
「はい。喜んで」
だから彼女からその言葉を聞いた時、本当に嬉しかった。
彼女と付き合っていることは二人だけの秘密にしておいた。本部のなかでは偶に言葉を交わす程度で、週末に二人きりでデートをした。出来るだけ軍人達の居ない場所を選んだから、私達の関係を知る人間は居なかった。彼女は私のことをノーマンと名で呼び、私も彼女のことをカレンと呼んだ。カレンと付き合って、生まれて初めて人を愛するということを知った。
一方、軍務局は相変わらずの状態だった。特に海軍部では不正が公然と行われている。上官のアサモア大将もフォン・シェリング大将の手足の一人で、フォン・シェリング家傘下の軍需企業が軍からの注文を受注できるよう操作しているのは明白だった。なるべくそうしたことには関わらないよう、しかし彼等の不興を買わないように接しながら、地道な仕事に取り組んだ。
海軍部は出張が多く、帝都を離れることも多い。特に艦を率いる時は、ひと月も音信が取れなくなることがある。今回も海賊が出没するという海域での掃討作戦に赴くことになって、三週間、帝都を離れた。しかし、そうした任務では参謀としての仕事が出来たから、それで得るところも大きかった。
無事、任務を終えて帝都に戻ったのが土曜日の夜だった。その日は疲れ果てて眠りについた。夢も見なかったから熟睡したのだろう。携帯電話の着信音で眼が覚めた。カレンかと思ったら、ジャンだった。そういえば、ここ久しくジャンと連絡を取っていない。
「久しぶりだ、ジャン」
ベッドの上を転がりながら時計を見る。既に昼の一時を過ぎていた。
「ザカ大佐。お久しぶりです。お元気ですか?」
ジャンの声を聞くと安心する。ベッドから起き上がって前髪を掻き上げながら、元気で遣っていると応えた。ジャンも変わりないのだろう。
「今、帝都に向かっているところなのです。ザカ大佐のお時間があれば、今日、お会いしたいのですが……」
「今日か? 私は休みだから何時でも平気だが、急なことだな。出張か?」
「いえ、それが実は本部に配属となったのです。本部軍務局総務課――、明日から其処に配属となります」
ジャンが本部に配属となった――?
驚いて言葉が出なかった。連絡を取っていなかった間、何かあったのだろうか。しかし、本部とは――。それも私と同じ軍務局とは――。
ジャンは翌日から私と同じ軍務局に籍を置くことになった。陸軍部と海軍部とで席は離れているものの、味方が一人増えた気がして心強かった。ジャンにはカレンのことも話し、じきに紹介することも伝えた。ジャンは喜んでくれた。しかも事務手続きもあって、彼女と顔を合わせることがあったらしく、随分綺麗な女性ではないですか――と言って私を揶揄したりもした。
一方で、ジャンはすぐに頭角を現した。事務処理能力に加えて、語学力も堪能だから、重宝された。だが、決定的な欠点があった。ジャンは間違っていることを見過ごす人間ではないから、たとえ上官であっても真っ向から間違いを指摘する。そのことによって、忽ち上から睨まれることにもなった。
「上手くやれよ、ジャン。敵を作ると厄介だぞ」
「既に敵ばかりですよ。フォン・シェリング大将に睨まれていますしね」
フォン・シェリング一派からのジャンへの嫌がらせが始まった。会議出席の通達をしなかったり、資料を渡さなかったりすることは多々あった。ジャンの部下にあたる大佐もジャンの命令を聞かないことも多い。それらにジャンは毅然と立ち向かっていく。
「……お前は将来、大物になりそうだな」