欠片
「要は私から君を引き離したいということだ。君の能力は本部内でも知られているからな。だからこそ、無闇に支部に飛ばすことも出来なかったのだろう」
書面には海軍部軍務局への転属命令が記されている。この本部に留まることは出来るが、これまで接点の無い海軍部に配属することになる。そして、命令となれば此方に拒否権は無い。
「そもそも大佐となってから陸軍から海軍に配属されるなど、あまり例のないことなのだがな。……この命令書を受け取った時、すぐに抗議した。……だが、冷静になって考えてみると海軍部を刷新する良い機会となるかもしれないとも思えた」
「刷新ですか……?」
「知っての通り、海軍部の権限を握っているのはフォン・シェリング一派だ。陸軍部は彼に反目する私のような存在が居るから、彼等も思い通りには出来ない。だが海軍部は彼等の思い通りだ。彼等を見張ってはいるが、陸軍と海軍の見えない壁に阻まれて、私も簡単には手出しが出来ない」
フォン・シェリング一派――。
その名は軍に入ってから何度も耳にしてきた。彼等に背いたら、昇級出来ないと皆が囁き合っている。だが気に入られると――、いずれは中将か大将となることが出来る、と。これまで私はロートリンゲン大将の許に配属されていたから、フォン・シェリング派からそうした話が持ち出されることもなかった。
「だが、君ほどの能力があれば、すぐには無理でもいずれ刷新の方向に道が開けてくるのではないかと期待もしている」
「閣下。私にはそのような能力はありません。今の状態で手一杯です」
「能力を見い出したからこそ、私は副官付に任命した。私の眼に狂いは無い筈だ。ザカ大佐、無論、厳しい道程となろう。君の為すべきことを阻む者達も多くなってくる。だが、常に私が後ろ盾となる」
「閣下……」
「この話を受けてくれないか……? 君を敢えて茨の中に放り込むことになるが、後の軍の為にもなる。狡猾だが、私はそう考えてしまった」
漸く仕事に慣れてきたと思ったら転属か――。
それも足を踏み入れたこともない海軍部となると余計に気が重い。昇級するうちに支部に転属されることはあるかもしれないと思っていたが、まさか海軍部に転属されるとは思わなかった。
「ザカ大佐」
不意に呼び掛けられて足を止める。背後に立っていたのはフォーク准尉だった。
「どうかなさったのですか? 難しい顔をなさって歩いてらっしゃいましたが……」
「あ……。済まない」
彼女とこうして言葉を交わせて嬉しい筈なのに、転属のことで頭がいっぱいだった。
「もしかして具合でも悪いのですか?」
「いや、違うんだ。……転属命令が出てしまってね」
「転属ですか……? この時期に……?」
フォーク准尉も驚いて聞き返した。
「ああ……。命令だから仕方無いとはいえ、漸く仕事に慣れたところだったから……」
「そうでしたか……。でも……何か失敗なさって転属を命じられたということではないのでしょう?」
「え? ああ。失敗は無いと思うが……」
「でしたら、もう仕方無いですよ。上が都合良く人事を動かしただけですから、ザカ大佐が気になさることではありません。それにザカ大佐なら、どの部署に配属されても大丈夫ですよ」
フォーク准尉は私を元気づけるように言った。仕方無いと言われれば確かにそうだが――。
「次の部署でまた仕事を憶えれば良いんです。そうしたらザカ大佐の仕事の幅も広くなります」
「仕事の幅……?」
「違う部署で違う仕事を憶えれば、それはザカ大佐の力となると思います。……偉そうな口振りですが、私はそう考えるようにしているんです」
フォーク准尉の言葉に傍と眼を覚まさせられる思いがした。転属のことを悔やんでも私の力ではどうにもならない。それよりはフォーク准尉の言う通り、前向きに考えた方が良い。そうだ。陸軍の仕事に加え、海軍部の仕事も身につけておくことは悪いことではないではないか。
「……ありがとう。フォーク准尉。おかげで眼が覚めたよ」
フォーク准尉は微笑して、それではとこの場を去っていった。
そうだな――。陸軍部の仕事には慣れてきた。幸いまだ三十歳となる前だ。海軍部に転属となって新たに仕事を憶えるのも良い機会かもしれない。陸軍部と海軍部、どちらの仕事も身につけておけば、今後どちらに配属となってもさほど苦労しないだろう。
意を決した。海軍部でまた一から頑張ろう――。
翌日、ロートリンゲン大将の執務室を訪ねた。海軍部への異動を受諾すると、ロートリンゲン大将は静かに、そして申し訳無さそうな表情で、ありがとうと言った。
「派閥の争いに巻き込んで済まない」
「いいえ。遅かれ早かれ、異動を求められたと思います。新しい仕事を身につけるつもりで、海軍部に行きます」
ありがとう――ロートリンゲン大将はもう一度そう言った。
「せめて君の能力を生かせるよう、部署は仕切らせてもらった」
そういえばまだ何処に所属することになるのかを聞いていなかった。司令課や兵務課といった主要な課ではないだろう。事務職の色の濃い課かもしれない。しかしそうなったら、フォーク准尉と会う機会も増えるかもしれない。
「軍務局司令課艦隊司令部に配属だ。第6艦隊参謀副官――これが君の職責となる」
司令課艦隊司令部、第6艦隊参謀副官――?
艦隊司令部は誰もが羨む部署で、謂わば海軍部の花ともいうべき所だった。おまけにそのなかでも参謀の職に就けるとは――。
驚いて返す言葉を失った。
「将官――そうだな、中将となれば大艦隊の艦長となることが出来る」
中将――其処までの昇進は考えたことがない。将官の最下位、准将になれれば充分だと思っていた。上手くいけば少将となれるかもしれない、そう考えてはいたが、今から海軍部に転属となったらおそらく難しいだろう。
「参謀の仕事が担当できるだけで充分です。閣下」
「君は真面目だから仕事を覚えるのも早いだろう。仕事能力については何も心配していないが……、問題は軍務局だ。陸軍部も海軍部も不正の巣窟のような状態だ。何かに巻き込まれそうなことになったら、すぐ私に相談しなさい」
「はい。ありがとうございます」
「それから身元引受人の件だが、考えているか? 海軍軍務局長のアサモア大将に頼むことも出来るが……」
「あ……。まだ考えていませんでした」
身元引受人のことを今指摘を受けるまで考えたことが無かった。身元引受人の該当者が居ない場合は、原則として上官に頼まなければいけない筈だ。だがそうなると、また一から説明しなければならないだろう。それにロートリンゲン大将のように快く引き受けてくれるだろうか――。
「これは提案だが、君が結婚するまで私が身元引受人を引き受けるというのはどうだろう。勿論、私が引受人となっていることで、海軍部の風当たりは冷たくなるかもしれないが、不用意に君を陥れることも出来なくなる。……それにアサモア大将が引き受けてくれるかどうか、少々疑問に感じることもあってな」
「宜しいのですか……?」
私としてはこのままロートリンゲン大将が身元引受人となってくれた方が良いに決まっていた。だが直属の上官ではなくなるからそうは出来ないのだろうと思っていたが――。