欠片
第5章 霹靂
休日は昼まで眠り、テレビを観たり本を読んだりして過ごすのが常だった。平日は睡眠時間も少ないから、溜まった疲れを休日に癒す。そうして一週間の疲労を癒してから、月曜日に臨む。
今日も陽が高くなるまで眠った。昼を過ぎてから空腹を覚え、食事を摂ろうと冷蔵庫を空けた時、食料が尽きかけていることに気付いた。買い物に行かなければならない。そういえば、他にも日用品を切らしていた。気晴らしに街に出掛けながら、買い物を済ませてこよう。
入浴して着替えを済ませ、寮を出る。外は心地良く晴れていた。街まで少し距離はあるが、こういう日は歩く方が気持ち良かった。
まずは馴染みのカフェに入り、食事を摂る。温かい珈琲を飲んでいると、次第に活動意欲が湧いてくる。折角街に出たのだから、買い物だけでなく、何処かに行ってみようか――。
食事を済ませて、ぶらりと街を歩いてみる。街は活気を呈していた。映画館も博物館も満員のようだから、書店だけを覗くことにした。一冊の本を選んで購入し、それから買い物を済ませる。寮に戻る途次のことだった。前方から車がふらふらと走ってきた。運転手が酔っているのだろうか――それなりの速度が出ているのに、中央分離帯を越えたり戻ったりを繰り返す。危ないな――そう感じて、道の隅に避けようとした時、いきなり車が加速して中央分離帯を越えた。
「危ない!」
咄嗟に俺の前を歩いていた親子連れを引き寄せ、後方に跳び退った。何がどうなったのか、私自身もよく解らなかったが、跳び上がった時、右手が何かに掠ったような熱を感じた。
車は歩道に乗り上げ、側のビルの入口に突っ込んだ。
「……ありがとうございます……」
親子連れの母親は茫然とした様子で私を見上げて言った。小さな子供は驚いてしまったのだろう。急に泣き出してしまった。
一体誰がこんな危険な運転を――。
立ち上がった時、大丈夫ですか――と聞いたことのある声が聞こえて来た。振り返って驚いた。
あの総務課の事務室に居た女性が立っていた。
「御怪我なさっています。これで傷を抑えて下さい」
先程感じた熱はやはり怪我によるものだった。深手ではないようだが、右手は血塗れになっていた。ありがたく彼女からハンカチを借りて、傷口を抑える。その時、彼女はそっと私に言った。
「この場から離れましょう。あの方はフォン・バイエルン大将閣下の御子息ですから、関わらない方が良いです」
驚いて彼女を見返すと、彼女は私の手を引いて、騒ぎになりつつあるその場を足早に去っていく。寮とは反対の方向に進み、大通りを曲がったところには大きな公園がある。彼女はそのベンチまでやって来ると、事情も伝えず済みませんと言った。
「いや。先程の車を運転していたのが……、フォン・バイエルン大将閣下の御子息と言っていたが……」
「ええ。彼自身も中将でケルン支部長です。あちらこちらで問題を起こしているので有名ですよ。その問題をいつももみ消しているのですから」
「詳しいな」
「事務局にいると色々な話が入って来ます。……閣下はフォン・バイエルン大将閣下とは御縁はありませんよね……?」
「私はロートリンゲン大将閣下の部下で、本部といえども特務派事務室に所属している。フォン・バイエルン大将閣下にはお会いしたこともないよ」
不安そうに窺った彼女に首を横に振って応える。彼女は安堵した様子で笑んだ。
「安心しました。傷の具合は如何ですか?」
「大した傷ではないから大丈夫だ。しかし君のハンカチを汚してしまった」
「構いませんよ。大分出血なさっていますし、病院に行った方が宜しいのでは?」
「いや。もう出血は止まってる。消毒して絆創膏でも貼っておけばすぐに治るよ」
「閣下。此処で少しお待ちいただけますか?」
彼女はそう言うと立ち上がった。辺りを見渡して、念を押すようにお待ち下さいね――と言って、立ち去って行く。彼女の姿が見えなくなってから抑えていた手の甲を見ると、抉れたような傷が見えた。もしかしたら車のバンパーか何処かに当たったのかもしれない。この程度の傷で良かった。運が悪ければ刎ねられていたかもしれない。
一度は視界から消えた彼女が再び現れたのは、10分程待った後だった。彼女は小走りに駆けてきて、私の側に腰を下ろすと、手を貸して下さい――と言った。どうやら薬局で薬を買ってきてくれたようだった。
「あ、いや。自分でやるよ」
「片手では不便でしょう。手を出して下さい」
女性にこんな傷を見せて良いのだろうか――そう思う気持ちもあったが、彼女の方が素早かった。ハンカチをそっと取り去ると、買ってきた消毒液をガーゼに染み込ませる。沁みますよ――と告げる彼女の言う通り、かなり沁みたが顔には出さないよう努めた。彼女は消毒を終えると、軟膏のようなものを塗りつけたガーゼを傷口に当て、包帯でそれを抑えた。
「何処かに引っかけたみたいですね。閣下。応急処理ですから、きちんと病院に行って下さい。大分深い傷のようです」
「ありがとう。……それから先程から気になっていたのだが……」
「何でしょう?」
「私はまだ大佐で、閣下と呼ばれるような階級ではないんだ。参謀本部特務派ノーマン・ザカ大佐だ」
「ロートリンゲン大将閣下の書類を持ってらしたので、てっきり……。でも私よりは随分階級は上ですよ。……あ、私は総務課事務局のカレン・フォーク准尉です」
カレン・フォーク准尉――思いがけなく、その名を知ることが出来た。彼女は自宅に戻る途中だったのだと言う。そこへあの事故が起こった。
「車が急発進して歩道に乗り上げた時、もう駄目だと思ったのですが……。閣下……ザカ大佐が二人を庇ったのが見えたのです」
「あの親子が無事で良かった。フォン・バイエルン中将閣下の行動はどうかと思うが」
「旧領主層ですから何をしても許されてしまいますもの」
やりきれないものを感じるが、フォーク准尉の言う通りだった。私もこの件は胸の内に秘めておいた方が良いだろう。
フォーク准尉とは暫く話をして別れた。同じ道を通って寮に戻ったが、既に車は現場には無かった。ビルもビニールシートで覆われていたが、何事も無かったかのように装っていた。
事故に巻き込まれるという不運に遭ってしまったが、彼女の名を知ることが出来た。話も出来た。そればかりか――。
「おはようございます。ザカ大佐」
彼女と顔を合わせるたび、挨拶を交わし合うようになった。
「え……!? 転属ですか……!?」
ロートリンゲン大将からの呼び出しを受け、執務室に行くと、待ち受けていたのは転属命令だった。ロートリンゲン大将も厳しい顔つきのまま、私に一枚の書類を指し出した。其処に記されていたのは、予想もしないところへの転属命令だった。
「海軍部……」
驚きの余り、それ以上の言葉が紡げなかった。私が海軍部に転属となる? しかもこんな中途半端な時期に? ついこの前、ロートリンゲン大将の副官付として任命を受けたばかりなのに――。
「大佐級の者が本部長副官付の任命を受けることを良く思わない者達が、君の異動を求めたようだ。……尤も派閥争いも絡んでのことだから、私が一因となっていることは否めない」
「閣下……」