欠片
叔父夫婦は家に住むようになると、次々と間取りを変えていった。部屋数だけはあったから、俺にも一部屋を宛がってもらえたのは幸いだった。父母の寝室はいわく付きだとの理由で物置にされた。
そして、俺は叔父や叔母から掃除を言いつけられた。庭の雑草処理、部屋の掃除――少しでも叔父夫婦に気に入らないことがあれば怒られた。ごめんなさい――この言葉を一日に何度口にしただろう。言いつけられた用事を終えてソファでテレビを観ていると、ただそれだけで邪魔だと言って殴られたこともあった。
叔父は酒を飲むと特に荒れた。酒を飲んでいない時でも殴られるのに、酒を飲んだ時はさらに殴られた。叔母はそうした叔父の暴力を黙って見ていた。俺がいくら泣いても、泣けば泣くほど腹や背を蹴られた。
助けてくれる人は誰もいなかった。
俺は努めて良い子にしていたと思う。はしゃぎ回ることは勿論無かったし、叔父や叔母に怒られる前に掃除や洗濯を済ませた。怒られないように部屋の片隅でいつも静かに過ごしていた。
それなのに、叔父は事あるごとに殴りつけてきた。叔父の拳が鳩尾に入って、気を失ったこともある。腕を傷めたこともあるが、一度も病院に行ったことは無かった。病院に行けば、虐待だとすぐに判明するからだろう。
「ごめんなさい。すぐに片付けます」
この時も本当は片付け終わっていた。叔母がつい先程、ゴミを外に出したことを知っている。そのゴミのことを言っているに違いなかった。
しかしそれを指摘しようとも、口答えだと殴られるに決まっていた。俺が我慢して謝れば叩かれることはない――幼いながらに、俺は譲歩と忍耐を悟っていた。
だが、叔父の脇をすり抜けて庭に出ようとすると、腕を掴まれた。大きな手が目前に迫り、眼を閉じた瞬間に頬を叩かれる。
「言いつけられたことを忘れるのは弛んでいる証拠だ!」
両頬を叩かれてから解放される。頬はじんじんと痛んだが、それでもこれだけで済む日は良い方だった。叔父の手が放れるとすぐに俺は庭に向かい、ゴミを片付け始める。散らかったゴミを袋に集めて、ゴミ捨て場に持っていき、家に戻ってくると、扉に鍵がかかっていた。
チャイムを鳴らし、叔父さん、叔母さん――と呼び掛けてみた。だが、返事は無かった。何処か出掛けてしまったのかと思ったが違う。中から確かに声が聞こえる。
「叔父さん、叔母さん! ドアを開けて!」
バンバンと扉を叩くと、暫くして、側の窓が開いた。叔父がゴミをすぐに片付けなかった罰だといって、今日は外で過ごすように言った。
まだ寒さの残る季節だった。寒空の下、俺は途方に暮れて、玄関の下に蹲った。
『どんなに辛いことがあっても負けないで』
母の言葉を思い出すたび、泣いてはならないと思った。だがこの時はどうしようもなく悲しくなって、辛くて――。
蹲って、声を押し殺して泣いた。
叔父の暴力は年々酷くなっていった。殺されるかもしれないという恐怖から、この家を逃げ出したいと思う一方で、此処から逃げ出したら行く場所も無い、住む場所も無いことを考えると、不安で胸が一杯になる。恐怖と不安――それらのうち俺の中で勝ったのは不安だった。
両親を失った俺は、一人になることが怖かった。誰かに側に居て貰いたかった。
叔父夫婦が俺の家にやって来て、半年が経過した頃、叔父夫婦が何処かへと出掛けた。僕も行く――とせがんだが、当然の如く、連れて行ってはもらえなかった。
一人きりになった家はしんと静かで、誰の足音もしなかった。叔父からの暴力を受けることがないと安心する一方で、不安が犇めいていた。特に真夜中は怖かった。不安に耐えきれず、俺が向かった先は嘗ての両親の寝室だった。物置となっていたが、ベッドはそのままに置かれていて、母が使っていたベッドに横たわって眠った。埃塗れだったが、それでも母の温もりが染みついているように感じられた。
叔父夫婦は翌日になっても戻って来なかった。
はじめは冷蔵庫にある残り物を食べて過ごした。それが徐々に減っていき、パンすらも無くなってしまった。
物を買いたくとも、お金が何処にあるのかも解らなかった。棚の中を探しても、何処にも無い。どうしよう――と冷蔵庫を見ながら悩んでいた時、卵がまだ残っていることに気付いた。卵と粉、それに砂糖と塩、それらがあればパンケーキを作ることが出来る。母から教わったそれを作って食べていると、母が急に恋しくなってしまった。涙と共にパンケーキを食べた。
叔父夫婦は二日過ぎ、三日過ぎても帰って来なかった。四日目には卵さえも尽きてしまい、途方に暮れていたところ、近所の人が助けてくれた。
「叔父さんと叔母さんは何処に出かけたの?」
そう問い掛けられても、俺は解らないとしか答えられなかった。ずっと一人だったのと問い掛けられ、頷くと、また涙が溢れてきた。
「お母さんがいなくなってから、悲鳴のような声が聞こえることがあったから気になっていたけれど……。ノーマン君、叔父さんや叔母さんに何か酷いことをされた?」
俺は全てを話した。泣きながら、ずっと辛かった胸の内を打ち明けた。その人は俺を自分の家に招いてくれて、暖かい食事を作ってくれた。それから相談所に俺のことを話してくれ、対処してくれることになった。
初めは、神様の助けだと思っていた。
だが、このことで事態はさらに悪化してしまうことになった。
叔父夫婦が帰宅するまでの間、俺は一時的に相談所で過ごした。その時、医師によって診察を受け、腹と背に痣があることが判明した。相談所の人達は暖かく接してくれた。まるで母のように。
暖かな部屋と食事、眠れない夜は一緒に眠ってくれた。ずっと此処に居たいと思った。
それが三日目のことだった。叔父夫婦が相談所にやって来た。相談員ははじめ、俺と叔父夫婦を会わせず、別室で話をしていた。叔父夫婦が来たことを知らなかった俺は、それまでと同じようにテレビを観て過ごしていた。そうしていたところへ、相談員が叔父夫婦と共にやって来た。
叱られる――すぐに俺はそう感じた。途端に恐怖が襲ってきて、言葉が出なくなった。
「ノーマン君。叔父さんと叔母さんがお出掛けするってこと、知っていたって本当? 行きたくないからお家で待っていたの?」
そんな筈は無かった。叔父夫婦は黙って家を出掛けて行った。行きたくないなど一言も言っていなかった。
だが俺は、叔父の顔を見たらもう声が出なくなってしまった。叔父は酷く冷酷な眼で俺を見ていたから――。
「身体の傷は階段から落ちたものなのですって? 本当にそうなの?」
この時俺は大人の狡猾さを知った。真実は叔父夫婦によってねじ曲げられてしまった。
「ノーマン君。ちゃんとお話出来るわよね?」
違う――たったその一言が言えなかった。叔父の眼が俺を制圧していた。そして、叔父はとどめの一言を言い放った。
「この子は虚言癖があるんです。親を亡くして周囲の眼を惹きたいのでしょう。私達が少しずつそれを直していこうと思っているんです」
俺は虚言癖のある子供とされてしまった。