欠片
第1章 記憶
誰が育ててやっていると思っている。
恩を忘れて刃向かうか。
その反抗的な眼、腐った性根からたたき直してやる。来い――。
「……っ!」
身体に絡みついた腕を振り払おうとした瞬間に眼が覚めた。手は天井に向かって伸びていた。
夢――だった。
幼い頃のことを夢に見てしまった。こんな風に魘されて眼を覚ますことも、昨今は無かったのに――。
ベッドから上半身を起こし上げると、じっとりと汗をかいていることに気付いた。そればかりか息も上がっていた。胸の鼓動もどくんどくんと強く全身を打ち鳴らしている。
怖い――。
震えそうになるのを、拳を握り締めて耐える。
もう十年も前のことなのに、昨日のことのように眼前に浮かぶ。殴られ、蹴られ、暗い部屋に閉じ込められ……。腹や背に痣が絶えなかった。気絶するほど、首を絞められたこともあった。子供心ながらに死の恐怖を何度も味わった。
そうした過去がいつまでも拭い去れない。消し去りたいのに、忘れることが出来ない。まるで脳に深く刻み込まれているようで――。
また、思い出してしまう――。
父と暮らした頃の記憶は殆ど無い。僅かな記憶のなかにある両親は、俺のことを可愛がってくれた。ノーマンと優しく呼び掛ける二人の声と温もりはよく憶えている。父が抱き上げてくれたこと、階段から落ちそうになった時、助けてくれたこと――。
幼い頃の俺は、幸せだったに違いない。家族写真を見ると、それをいつも確信する。
父が病に倒れたのは突然のことだった。そのことはあまり憶えていない。俺が憶えているのは、父が横たわるベッドの側で遊んでいたこと――それだけだった。母は俺の手を引きながら、病院に通った。
だが、父は程なくして亡くなった。幼かった俺は、父の死を理解することもなかっただろう。泣き崩れる母の様子だけは鮮明に憶えている。子供が居るのだから確り頑張って――と、誰かが母に言っていた。葬儀の時のことだった。
そしてきっと母は強い人だったのだろう。葬儀から暫くして、母は俺に言った。これからは二人きりの生活になって寂しいけど、頑張らないとね――と。母は近所の会社に事務員として働きだした。母が仕事に行っている間、俺は保育園に預けられた。母が迎えに来てくれるのを俺はずっと待っていた。
それがある日、いつまで経っても母は迎えに来なかった。母は会社で倒れ、病院に運ばれた。父の看護と死去、それに幼い俺を抱えての生活で苦労したことが原因だったのかもしれない。報せを受けた保育園の先生が、俺を病院に連れて行ってくれた。母は迎えに行けなくてごめんね――と、俺を抱きしめて言った。
この時、母は病に冒されていた。
「この子を置いて死ねないんです……! 絶対に……!」
医師にむかって言い放った母の言葉をよく憶えている。母は泣きながらそう言った。俺の身体を強く抱き寄せながら。
きっとこの時、母は余命を聞かされたのだろう。医師は親族はいないのか尋ねた。母は居ないと応えた。
父も母も既に両親と他界していた。だから俺は祖父母の顔は写真でしか知らない。母は暫く入院した後、家に戻った。
後になって考えてみれば、母は少しでも長く俺と過ごそうと思ったのだろう。そして俺に出来る限りのことを教えてくれた。洗濯物を畳んだり、簡単な料理を教えてくれたり――。
「ノーマン。大きくなったら、素敵なお嫁さんを見つけなさいね」
冗談めいてそう言ったこともある。具合の良い時は母と出掛けることもあったが、病は徐々に母の全身を蝕んでいった。ベッドから起き上がれない日もあった。そんな母のために、母から教わったパンケーキを焼いたことがある。火加減を間違えて焦がしてしまい、おまけに形もいびつなものとなってしまった。それでも俺の焼いたパンケーキを、母は美味しいと言って食べてくれた。
月日が経つごとに、母はベッドに居る時間が長くなった。そんな日々のなかで、身体を引きずるようにして起き、俺のために食事を作ったり、掃除や洗濯をしてくれたりした。
母がよく電話をかけるようになったのはこの頃だった。おそらくは自分の死期を悟り、俺の世話をしてくれる人を探していたのだろう。
「ノーマン。来週、ケルンから貴方の叔父さんと叔母さんが来るのよ」
母はケルンの叔父と叔母のことについて教えてくれた。叔母が父方の祖父の妹に当たるらしい。母も面識は無いとのことだった。
そして叔父と叔母に初めて会った。あんたも大変だね――と、叔母は母を見て言った。母は叔父と叔母に向かって言った。
「初めてお会いするのに突然このようなことを頼みまして申し訳ありません」
母は俺のことを頼んだようだった。俺はこの時、母に言われて二階で遊んでいて、大人達の話を聞くことは出来なかった。傲慢な叔父と叔母のことだから、この時、色々と条件を提示してきたのだろう。
「ねえ、ノーマン。憶えておいてね」
ある日、母は俺をベッドに呼び寄せて抱き締めながら言った。
「パパもママも貴方をずっと愛しているわ。どんなに遠く離れてしまってもね。だから、どんなに辛いことがあっても負けないで。立派な人になってね」
母はそれからひと月後、息を引き取った。家で倒れ、俺が救急車を呼び、一緒に病院へ行った。その三日後のことだった。母は医師や看護師に事情を話していたようで、病院側が叔父夫婦に連絡をいれた。俺は叔父夫婦に引き取られることになった。
「面倒臭いものを押しつけられたな」
母の葬儀の後で、そう言った叔父の言葉を俺は今でもよく憶えている。
頭が痛い――。
一度は起きた筈なのに、またいつのまにか横になっていたようだった。幼い頃のことを考えるといつもこうだった。自分の知らないうちに意識を失ってしまう。
それだけ強烈な記憶なのだろう。母が亡くなった時、置いていかないで、と俺は叫んだ。一人きりになってしまった時、初めて恐怖を感じた。それが第一の恐怖だった。
第二の恐怖は――。
考えるのを止そうと思うのに、今日は駄目だ。頭痛と共に、叔父と叔母の声が脳裏に響く。
「ノーマン! 裏庭を片付けておけと言っただろう!」
母が亡くなってから程なくして、叔父夫婦が家に住むようになった。家は株の投資で設けた祖父が建てたもので、この辺りの住宅街にしては比較的大きな家だった。
『もしもという時はこの家を売れば金になる。この辺の地価は高いのだろう?』
『名義変更が出来ればね。でもケルンの狭いアパートよりこっちのほうが余程良いよ』
『まったく家の名義人を子供にするとはな。お前の親族はずる賢い』
『子供に遺しておきたかったんだろうさ。……ま、名義人というだけで何が出来る訳でもないだろうから』
後になって知った。母はこの家の名義を叔父夫婦に変えることを、最後まで拒んだらしい。それはおそらく俺にこの家を遺すということよりも、俺をきちんと養育させるためだったのだろう。名義さえも叔父夫婦に渡っていたら、俺はあの家を追い出されていたに違いない。