欠片
ジャンが側に居るから、叔父はさも私のことを心配している口振りで物を言う。私は叔父の本性を身を持って知っているが、ジャンはそうではない。叔父のこうした態度を見たら、私はジャンの信頼をも失ってしまうのではないか――。
そう考えると、恐怖とは別の不安が胸を犇めいてきた。
「私はザカ中佐から、過去の全ての話を聞いています」
ジャンは静かな口調で言った。
「過去の経緯を知ったうえで貴方の態度を見ると、無性に腹立たしくなってくる。……話を聞いただけの私でさえそうなのですから、ザカ中佐に至ってはそれ以上の思いがあるでしょう。どうかこのままお引き取り下さい」
叔父の眉が一度大きくつり上がった。怒りにその顔を赤く変える。
「若造が良い気になりおって! ノーマンの虚言を信じるか!」
「どちらが嘘を吐いているのかは明らかです。其方があまりに執拗にザカ中佐を追いかけるなら、警察に訴えます。私達は軍人ですから、公安も動くでしょう」
叔父は鋭く睨み付けてから、背を向けて歩き去っていった。その背中が完全に見えなくなると、途端に――力が抜けた。
「ザカ中佐!」
門に背を預け、両足の力を失った私にジャンが肩を貸してくれた。足が震え、全身から汗が噴き出した。
「部屋に行きましょう」
ジャンは私を支え、ゆっくりと歩き出した。何とか階段を上がって部屋に入り、椅子に腰を下ろす。足の震えは未だ止まず、汗は次から次へと流れ落ちてくる。落ち着け――と自分自身に言い聞かせても、もしかしたらまたこの瞬間にでも叔父がやって来るのではないかと恐怖が襲ってきた。そう考えると、息までも上がってくる。
「ザカ中佐、水を」
ジャンがコップを差し出す。それを受け取り、落ち着けと自分に何度も言い聞かせながら、口に運んだ。震える手のせいで上手く水を飲めなかったが、何とかそれを口にすると、少し落ち着いてきた。
「……済まない……」
「いいえ。少し休まれた方が良いでしょう」
深呼吸を繰り返し、ジャンが持って来てくれたタオルで汗を拭い、コップ二杯の水を飲んだ。どのくらいの時間が経ったのか解らないが、漸く通常の思考回路が戻って来て、汗は止まり、震えも止んだ。
「情けないな……。何年経っても叔父への恐怖は拭えない」
「ザカ中佐……。それだけの酷い経験だったということです」
成人して身長も叔父を追い抜き、体技にも自信があるにも関わらず、叔父を前にすると身体が竦んで何も出来なくなる。以前、叔父が事務局に来た時もそうだったが、今回はあの時以上に恐怖を覚えた。
「差し出がましいことは承知ですが……、ザカ中佐、法的にも絶縁した方が良いのではないですか……? そうした方がザカ中佐の気分も楽になるのでは……」
私自身、そのことに気付いていた。眼を背ければ背けるほど、恐怖心が募っていく。時折見る悪夢は、私の深い記憶にずっと残っているもので、その悪夢が恐怖を呼び起こし、私の心をかき乱している。
このままでは、私はいつまで経っても叔父の呪縛から抜け出せない。そればかりか、私の中の恐怖がその呪縛をさらに強めてしまう恐れもある。
それらから私自身を解放するためにも、法的な手段によって叔父達と縁を切る必要があるのではないか――ジャンの言う通り、私もその必要を感じていた。
「そうだな……」
「微力ですが協力します。弁護士を探して、まずはどうすれば良いか相談してみましょう。私もあまり詳しくないので……」
「ありがとう、ジャン」
ジャンは親身になって私のことを考えてくれる。そして――、あのような状況下でも私を信じてくれた。
たった一言では感謝を言い尽くせないほどで――。
「本当にありがとう……。ジャン……」
良い親友だと思う。しかし親友なのに、私ばかりジャンに頼って、しかも私の方がひとつ年上だというのにそれらしいことは何もしてやれない。それなのにジャンはそれを気にする風も無くて――。
「明日明後日と休暇だから、弁護士を当たってみる。どんな手続きが必要か聞いて……」
プルルとジャンの胸元から微かな音が鳴った。携帯電話のようで、すみませんとジャンは言いながらそれを取りだした。
「はい。ヴァロワ大佐です」
ジャンが応えた瞬間、何時だと思っている――と怒声が響き渡った。ジャンは眼を見開いて時計を見、申し訳ありませんと頭を下げた。
もしかして、何か任務の途中で立ち寄ったのか。それだとしたら――。
「ジャン。私が事情を説明する。電話を」
側で囁いたが、ジャンは私には首を横に振って、電話口でひたすら謝罪してからそれを切った。
「アントン中将と本部に来たのですが、少し時間が空いたので此方に立ち寄ってみたんです。うっかり時計を見忘れていましたが」
「アントン中将には私から謝罪する。一緒に行こう」
「いいえ。そうしたら却ってアントン中将に叱られます。人のせいにするな、俺が時計を確認していないのが原因だ――とね」
「しかし今回のことは私の……」
「大丈夫です。そう長々と怒る方でもないですし。それよりもザカ中佐、大丈夫ですか? もし許可が得られれば今日は私は此方に滞在を……」
「いや、大丈夫だ。迷惑をかけた」
「水臭いですよ。迷惑だなんて言わないで下さい」
「大丈夫だ。それより早く本部に戻った方が良い」
ジャンは頷いて、また連絡しますと言って、部屋を去っていった。ジャンには本当に迷惑をかけてしまった。
もう二度とこのようなことを引き起こさないためにも――。
叔父と正式に絶縁する必要がある。書類の上では、私はまだ叔父の養子となっているのだから。
不意に携帯電話が鳴った。画面にはロートリンゲン大将と表示されている。何か急な仕事だろうか――。
「はい。ザカ中佐です」
応対すると、今どこに居る――とロートリンゲン大将は尋ねてきた。
「寮にいます。すぐにでも本部に向かえますが……」
「いや、今し方、君の叔父らしき人物を見かけてな。気になって連絡したところだ。何かあったのではないだろうな?」
私は――。
私は、もう一人ではないのだと実感した。子供の頃のように一人恐怖に苛まれることもない。虚言癖があると見なされることもない。
信じてくれる人が二人も居る――。
「……先程、寮の前で待ち伏せされました。閣下、私は叔父夫婦と絶縁しようと思います。もしご迷惑でなければ、弁護士を紹介していただけますか……?」
以前、ロートリンゲン大将が言ってくれた。必要であれば、弁護士を紹介してくれると。今から弁護士を探し回るよりも、ロートリンゲン大将に紹介してもらったほうが早く物事を取り運べる。そう考えて、申し訳無いとは思いながらも、ロートリンゲン大将に甘えることにした。
「そうか……。解った。では今晩、会って話をしよう。七時頃、宮殿の西門に来てくれ」
七時前に西門前に行き、ロートリンゲン大将を待った。五分と待たなかった。
「少し歩こう。この先に車を呼んである」
百メートルほど歩いただろうか。其処にはロートリンゲン大将の黒い車があった。お疲れ様です、旦那様――とゴードン氏が出て来て言う。それから彼は私を見、お久しぶりですと穏やかな表情で言った。