欠片
一人で庭に出ようとしたくらいだ。散歩の時間を心待ちにしていたのだろう。殆ど外に出ることもないというから――。
「軍の方に此方の警備を務めて頂いていることも心苦しいのに、そのようなことまで頼んでは……」
「構いません。散歩のルートはちょうど警備区域です。一時間ほど森を回ってきます」
「ご迷惑ではありませんか?」
「まったく。フェルディナント様に何かあれば、携帯電話から御屋敷にすぐお電話します」
夫人は穏やかな笑みを浮かべて、ありがとうございます――と告げた。
「どうもありがとうございます」
車椅子を押しながら進んでいくと、長男が此方に顔を向けて言った。
「いいえ。具合が悪くなったらすぐに仰って下さい」
はい、と長男は返事をする。素直な少年のようだった。次男は元気で活発な印象を受けたが、長男はかなり大人しい子供なのだろう。ゴードン氏の言葉通りだった。尤も、病弱だからこそ大人しくなってしまったのかもしれない。
「いつも窓から、警備して下さっている姿を拝見しています」
長男は大人びた言葉でそう言った。
「お部屋から森もご覧になれますか?」
「ちょうどこの入口付近までは。……だから散歩の時間をいつも楽しみにしているんです」
「一昨日、リスを見かけましたよ。鳥も多いですし、私もこんな自然豊かなところは初めて見ました」
「リスを?」
僕は見たことがないです――と言って、長男は眼を輝かせた。
「私もその時、初めて見ました。逃げ足が速くて、一目しか見られませんでしたが」
長男は眼を輝かせながら話を聞いていた。そしてこうして話をしていても、大人と同じ反応が返ってくる。子供らしいところもあるが、何よりも物事を良く捉え、考えて話をしているような印象を受けた。
長男とはこの日以来、何度か散歩に出掛けた。打ち解ければ打ち解けるほど、長男が利発な子であることがよく解った。
そして――。
「こんにちは!」
カーフェン中佐と交替して外を見回ろうとしたところへ、そう挨拶の声をかけられた。明るいその声は次男のもので、どうやらロートリンゲン大将が此方に到着したようだった。
「こんにちは。ハインリヒ様」
次男は元気良く邸の中に入っていく。元気が良いな――とその後ろ姿を見て、カーフェン中佐が言った。
「先週は木登りをしていましたよ。あまりに上の方まで登っていくので、注意しましたが……」
「バルト少佐の話では、階段を滑り降りていたらしいぞ」
長男と対照的に次男は非常に元気の良い男の子だった。ロートリンゲン大将が叱りつけるのも専ら次男で、しかしその次男も叱られてもけろりとしている。
「閣下だ」
カーフェン中佐の言葉に振り返ると、ロートリンゲン大将が此方に近付いて来た。敬礼して迎えると、敬礼が返ってくる。
「お疲れ様です、閣下」
「君達こそ、済まないな」
ロートリンゲン大将の私服姿も見慣れてきた。警備の報告をカーフェン中佐が行う。ロートリンゲン大将はそれを聞いてから、御苦労様と労いの言葉をかけてくれた。
「そろそろ帝都に連れ帰ろうと思っている。フェルディナントも支えがあれば立ち上がることが出来るようになった」
「私達もそのお姿を拝見しました。大分具合が良くなられた御様子だと皆で話していたところです」
「君達のおかげだ。当初は離れて暮らすことに躊躇したが、決断して良かったと思っている」
ロートリンゲン大将はそう言ってから、邸の中に入っていった。それと入れ替えに次男が外に出て来る。
「パトリック。どうしても駄目?」
玄関先に居た管財人のミクラス氏にそう問い掛ける。ミクラス氏はあと三十分お待ちください――と返した。
「旦那様とお話してから、すぐにお連れしますので……」
「じゃあ、二人きりで行っても良い? 僕がルディの車椅子を押すから」
「それはなりません。ハインリヒ様」
「庭を一周回るだけだよ」
どうやら次男は外で遊びたいらしい。カーフェン中佐は俺を見て、促した。いつの頃からか、長男を外に連れ出すのは俺の役目となっていた。
「何かあれば連絡を」
「解りました」
そう応えてから、次男とミクラス氏の許に向かう。
「散歩でしたら、私がお連れしますよ。ハインリヒ様も御一緒に」
申し出ると、ミクラス氏は安堵した様子で、ありがとうございます――と言った。次男の方もぱっと明るい顔になって、良いの?と問い返す。
「ええ。まずはフェルディナント様をお誘いしましょう」
「僕が誘ってくる!」
元気の良い次男は、すぐさま邸の中に入っていく。その後ろ姿を見送ってから、ミクラス氏は申し訳ありません――と告げた。
「いいえ。外回りの警備と同時ですから」
「ハインリヒ様は眼を離すとあちらこちらに行ってしまわれるので、お気をつけて下さい」
「解りました。ではフェルディナント様をお連れしてきます」
邸の中に入ると、ロートリンゲン大将の声が聞こえて来た。お前はザカ少佐にまで我が儘を言ったのか――と。
「構いませんよ、閣下。いつも周辺の警備と共に、お連れしていますので……」
「警備以外でも世話になってしまっているな。済まない」
ハインリヒは一時たりと凝としていないのだ――と、ロートリンゲン大将は肩を竦めて言う。そうした姿は軍での姿とは違う、父親の姿のように見えた。
ロートリンゲン大将が長男を抱き上げる。空いた車椅子を持って玄関の外に出て、長男を其処に座らせる。
「二人とも、ザカ少佐の言うことを聞くのだぞ」
確認するように子供達に言ってから、ロートリンゲン大将は俺を見て、それでは頼むと言った。
「はい。行ってきます」
長男の車椅子を押して、森の中に進む。次男はたたっと走り出した。それを注意しようとすると――。
「ロイ。久しぶりなのだから、僕と一緒に行こうよ」
長男がそう声をかけた。すると、次男は傍と気付いた様子で此方に戻ってくる。
「そうだね。ごめん、ルディ」
次男は素直に謝って、長男の傍らを歩き出す。この二人は本当に仲が良いのだろう。伴だって進んでいると、二人で楽しそうに話し始める。次男は帝都の様子を語り、長男はこの森の様子を語った。時間ごとに移り変わる木々の様子、動物の声――長男の話に耳を傾けると、驚くばかりだった。観察力が高く、それに物事を良く憶えている。
「え、リスを見たの!?」
「僕は見てないけど、ザカ少佐が見たんだって。そうですよね? ザカ少佐」
不意に話しかけられて我に返る。ええ、見ましたよ――と応えると、僕も見たいな――と次男は言った。
「木の枝に居ることが多いですよ。よく木をご覧になっていると、見つけられるかもしれません」
そう告げると、次男は眼を輝かせて木を見上げ始めた。その姿を見て、僕もずっと探してるんだよ――と長男が告げる。
「でもなかなか見つけられなくて……。リスと相性が悪いのかも」
長男のその言葉に思わず笑みが零れた。今日、こうして散歩をしている間にリスと遭遇したいものだった。この二人はどれほど喜ぶだろう。
車椅子を進めながら、同時に木々の間も見遣る。どのくらいそうしていたか、ふとかさりと微かな音が聞こえた。視線を動かすと、小さなリスの姿が見えた。