欠片
カーフェン中佐がそう告げると、パトリック氏は穏やかな表情で、これは前金ですと言った。
「皆様方には本務をお休みいただいて護衛に来ていただきました。旦那様からも相応の謝礼をと言付かっております」
ミクラス氏はそうして俺達に一枚一枚封筒を手渡し、邸内の設備の使用方法を一通り告げてから、警備室を後にした。
「……軍の手当以上だぞ」
ミクラス氏が去った後、カーフェン中佐は封筒を覗き込んで言った。正確に紙幣を数えた訳ではないが、一見しただけでもそのことは解った。
「確かロートリンゲン家にも私設の護衛が居た筈です。何故、彼等に頼まなかったのでしょうね」
バルト少佐はそう言ったが、何となくその理由は解った。先程、ロートリンゲン大将が離れて暮らすのは初めてだと言っていたから――。
「それはおそらく、通常の護衛には帝都の邸を守らせているのだろう。帝都に次男、マルセイユに長男と夫人が居るとなれば、双方に護衛部隊が必要となる」
カーフェン中佐の指摘通りだろう。そして護衛部隊の人数を減らすことも難しいに違いない。帝都の邸自体、此方よりも相当大きなものなのだから。それに、ロートリンゲン家自体が敵の襲撃を受けたこともあると聞いている。
「……フォン・シェリング家の護衛も相当な高収入だと聞いたことがあるが、ロートリンゲン家もそうなのかもしれんな」
他愛の無い話を交わしてから、警備の話に移る。朝と昼は二時間に一度、外を見回ることにして、夜は二人が警備室に常に待機することにした。その順番を取り決めてから、早速周辺を警備して回ることにした。
「ルディ。少し休みなさいね」
庭を見回っていた時、開け放った窓から声が聞こえて来た。何気なく其方を見遣ると、長男と夫人の姿が見えた。
今日は暖かな家族というのを目の当たりにした。羨ましいと思うのと同時に、自分もこんな家族を築きたいものだと思ってしまった。まだ結婚どころか、相手さえ居ないのに。
「皆様、お茶をどうぞ。ずっと同じ画面を見ていては息もお詰まりになるでしょう?」
ミクラス夫人が盆を手に警備室に入室する。こうして一日に何度か、ミクラス夫人が珈琲や紅茶を手にやって来る。明るい気さくな女性だった。
「今日のケーキは奥様のお手製のケーキです。旦那様も好物のケーキなのですよ」
夫人の手製のケーキということにも驚いたが、一口食べてもそれは絶品だった。ほんのりと洋酒が効いていて、甘さもちょうど良い。珈琲は薫り高く、どちらも非の打ち所のないものだった。皆、一様に絶讃するとミクラス夫人は微笑んで、奥様にお伝えしておきますね――と言った。
「そういえば一昨日からフェルディナント様のお姿が見えませんが……」
カーフェン中佐が何気なく問い掛ける。今朝、三人で話していたところだった。いつも一日一度は姿を見かけるのに、カーフェン中佐もバルト少佐も俺もその姿を見ていない。もしかしてまた体調を崩したのだろうか――そんなことを話していた。
「少し発熱なさって、お部屋で休んでいるのです。今日漸く熱も下がったので、明日には起き上がれると思いますが……」
「そうでしたか……。あの年齢では外に遊びに出たいでしょうに……」
「ええ……。赤ちゃんの頃から外に出てはならないと、あまり出歩いたこともないのです。今でも具合の良い時に十分ぐらいお庭に出るだけですし……」
十分だけ――。
それでは息が詰まるだろう。邸が広いとはいえ、外に出て遊ぶことを知らないとは――。
「では此方でもあまり外には……?」
問い掛けると、ミクラス夫人は俺を見て応えた。
「此方は空気が宜しいので、一時間程は散歩なさっているのですよ。……今は衰弱なさって歩けないことが残念ですが、もう少しお元気になられたら……。そうしたら学校にもお通いになることが出来るのですが……」
そういえば学校にも通っていないと言っていた。学校に行っていないということは、友人も居ないのだろう。弟が居るから、寂しさは無いのだろうが――。
「とても利発な御子様ですが、お身体の弱いことだけが残念でなりません」
ロートリンゲン大将から家族の話を聞いたことはあまりなかった。子供達のことも聞いたことがない。
ただ噂で聞き知っているのは、長男が病弱であること、そのため次男が後を継ぐということだけだった。
旧領主家の家族となると普通の家庭とは違うのだろうと思っていたが、初日のやり取りを思い出すとどうやらそうでもないらしい。俺自身が描いていた理想像に近いこの家族が、俺には微笑ましく見えた。
「外を見回ってきます」
見回りの時間がやって来て、椅子から立ち上がる。カーフェン中佐は頷いて、拳銃の携帯を確認した。
邸の周囲は森で囲まれている。木々の中に人が潜んでいないか確認しながらの見回りだが、此処は平穏でそれほど危険に晒されているようにも見えない。それでも常に警戒を怠らなかった。
警備室のある裏側から外に出て、庭から正面へと回る。邸を一廻りしたあとで森の中に行こう――そう考えていたところ、玄関の扉が開いた。
現れたのは車椅子に乗った長男だった。車椅子を前進させ、それが不意に止まる。玄関には三段程の段差があって、どうやら車椅子がそれを自動検知したようだった。長男もそれに気付いて段差を見遣る。
「どうかなさいましたか?」
近付いて声をかけると、長男は俺を見上げて言った。
「外に出ようと思ったけど、階段があって……」
「お一人で?」
「母上を待っているんです。でも時間がかかりそうだから、あの花壇の前で待とうかと思って……」
一人で出掛ける筈は無いだろうから、何かあったのかと思ったが――。
成程、そういうことだったのか。
「では私が花壇までお連れしましょう」
玄関の脇にはちょうど椅子があった。長男の身体を抱き上げて、一旦其処に座らせて、車椅子を階段の下に置く。もう一度抱き上げて、車椅子に乗せた。
筋萎縮の病だと聞いているが、確かに腕にも足にも力が入っていないようだった。手はまだ少し動くようだが、足はまったく動かせないようで、抱き上げるとぶらりと揺れる。
「ありがとうございます。ザカ少佐」
驚いたことにこの長男は俺の名を覚えているようだった。
「名前を憶えていただき光栄です。フェルディナント様」
長男は笑みを浮かべて、警備の途中ですか、と尋ねてきた。ええ、と応えてから気付いた。子供と会話しているとは思えなかった。非常に大人びた子供のようで――。
花壇まで車椅子を進めていく。その側までやってきた時、ルディ、と背後から声が聞こえた。夫人が此方に歩み寄って来た。
「ザカ少佐、すみません」
夫人は丁寧に謝ると、今度は長男に向き直った。
「急に居なくなるから吃驚したわよ」
「ごめんなさい。母上」
長男は素直に謝った。花が綺麗だったから――と花壇を見遣って言い、夫人はちょうど咲き誇っている時期だからね――と返す。そして長男の名をもう一度呼んだ。
「悪いけれど、お散歩はもう少し後になりそうなの。お部屋で待っていてくれる?」
長男は我が儘も言わず、素直に頷いた。
「あの、もし宜しければ、私が散歩にお連れしましょう」