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あの夏の向こう側

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 ほんの少しずれた足音を連れて、僕はリビングに入った。そこには水を飲む母がいた。電気を点けているが、祖母はグースカと眠っている。母は少し酔っているようで、顔がほんのりと赤かった。
 郁は僕の後ろにぴったりとくっついていた。これまでも母のことは見ていたはずなのに、緊張しているように見える。瞬きが増えて、口を一文字に結んでいた。
「ねえ母さん」
「何?」
「母さん、昔亡くなったお姉さんが居るって言ってたよね。上で見つけたアルバム見てたら出てきてさ……」
 母に郁のことを聞いたのは初めてだった。僕の中ではそれすらも内緒のうちであったのだ。
「あー、いっこのこと?」
 僕は一瞬たじろぐ。そして「いっこ」が郁子を示す言葉だと結び付いて得心した。
「いっこって、書いてあった『郁子』って人かな……」
「そうそう、郁子」
 少々適当に聞こえる言い方に、僕は少しイラッとした。伯母さんは僕の後ろに居るんだと、そう言ってやりたい気持ちでいっぱいだった。
「修学旅行が終わった後だったから、中三だったのかしら。なんだか姉って感じがしない人だったわね」
 舌の滑り具合からみると、母はやっぱり酔っているらしい。大人は酒を飲むと、感傷的な気分にでもなるのだろうか。彼女のことを思い出す自分が容易に想像できて、それを頭から振り払った。
「私は、いいお姉さんだった?」
 突然、背後から声が聞こえた。握った手首に力がこもっているのが感じられた。彼女の言動が少しずつ最後を意識していることを、感じざるを得なかった。彼女は姉として、郁子としての人生を清算したいのだろう。
「郁子さんはいいお姉さんだったの?」
 僕の問いに母は少し変な顔をしたが、「伯母さんの話って聞いたことないからさ」と付け足すと妙に納得したようだった。さすが酔っぱらいである。
「楽しい人だったわ。家に帰ってくるといつも笑い声が聞こえてた。……いっこは帰宅部だったからね」
 「いっこ」という呼び方が妙に生々しかった。きっと、母が幼い頃に使ったものだったのだろう。舌っ足らずな感じが、郁の死を遠い過去のものだと思わせた。
「いっこって何か、赤ちゃん語みたい」
 僕がそう言うと、母は思い出したように喋り始めた。
「小さい頃は郁子って言えなかったのよ。でもおばあちゃんの真似をしてこう呼んでた。こういうのって癖になっちゃうじゃない?」
 予想が的中しすぎて、クスリと笑った。同時に幼子の母を初めて想像して不思議な気分になった。
「そう言えば、あんた、笑った顔が郁子に似てるわよ、血は争えないってやつかねえ」
 なんて言われ、今度は苦笑いした。今は本人とほとんど一日中一緒に居るのだ、笑い方くらい似ていても不思議はない。
「いい姉だったけど、昔から私にはいっこが大人になった姿が想像つかなかったな。ずっと、子供でいるんじゃないかって思ってた。いつか私が年を追い抜くんじゃないかって。死んだとき、いっこには悪いけど、当たってたんだなって思っちゃったのよね」
 今度は僕が手を握り締める番だった。ふつふつとした怒りが、僕の中で音を立てて膨らんでいった。
 郁だって同じように年を重ねてきたんだ。短い髪だって似合うことを知らないだろう。どんな思いで彼女が僕の後ろに立っているのか、母さんは知らないだろう。
「斎」
 怒りを行動に起こそうとした僕を、郁は咎めるように制止した。
「死んだ人を、そんな風に言うのはよくないよ」
 僕はそれだけ言った。母はコップの水をぐいと飲み干し、寝ようと立ち上がった。
「なんであんたがそんなこと言うのよ、変なの」
 髪を掻き上げながら母は僕の後ろを横切ろうとして、何かにぶつかった。郁だろう。その振動が手から僕に伝わって、とっさに後ろを向いた。母は怪訝そうな顔をしているが、自分が寝ぼけているのかと思っているようだった。
「どうしたの?」
「いや……何かにぶつかったみたいな……」
「……何もないじゃん、酔っぱらってるんじゃね? 早く寝なよ」
 そう、ともう一度首を傾げて、母は部屋から出ていった。僕はおやすみと言って、母の肩に手を近づけた。僕が触れる前に、郁がその肩に手を伸ばしていて、僕は手を縮こまらせた。郁は、僕の代わりに母の肩をぽんと叩いていた。
「おやすみ、恵美子」
「はいはい、おやすみ」
 一瞬、母と郁とが会話をしているように見えて、そうではないのだと思い直す。母が出ていき、僕らは二人リビングに残されたが、祖母が寝ているのでこれ以上ここにいるのは申し訳なく、僕らは郁の部屋に戻った。
作品名:あの夏の向こう側 作家名:さと