あの夏の向こう側
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「さて、ばあちゃんも寝たし、始めようか」
部屋に新聞紙を敷いて、その上に椅子を置く。そこに郁を座らせた。僕の手には百均で買った散髪用のはさみが二本。
彼女の一つ目の願いは散髪だった。散髪と言ってしまえば身も蓋もないけれど、髪を短くしたいのだそうだ。
「服も捨てられちゃってオシャレのしようがないからさ、せめて髪型だけでも野暮ったいのから抜け出そうと思って!」
郁は鼻歌混じりに言った。椅子に座って足をピョコピョコさせている姿を見ると、ただの人間のようだ。自分と彼女が絶対的に違う存在だなんて思えない。
「その歌、何?」
「『わたしがオバさんになっても』だよ! 斎知らないの、遅れてるねえ!」
遅れてるねえ、と言われても、実際遅れて生まれてきているのだからしょうがない。こんなことを実感していないと、僕は郁を生きた人間として扱ってしまう気がする。どうでもいいことかもしれないが、僕にとっては超えてはいけない一線だった。
「母さんは飲み会だし、よし始めるぞ!」
「もうちょっと美容師さんっぽくやってよ」
郁が不機嫌そうに肩をいからせながら言う。僕はバスタオルを郁の首に巻いて洗濯ばさみで固定した。
「はいはい、今日はどんな髪型にいたしましょうか?」
「えっと、思いっきり短くしてください!」
「……じゃあバリカン探してくるわ」
「タンマ! そりゃないですよ店員さん」
郁が背を向けた僕の服を掴んで、椅子がミシリと音を立てる。
「そろそろ始めますよ。お客さんは運がいいなあ、僕の初めてのお客さんですよ」
「そりゃあ心配だ」
「恨むなら遺伝子を恨んでくれよ」
彼女は手をチョキにして、僕の前でひらひらして見せた。
「こう見えても私は器用で有名だったのさ」
「じゃあ、心配ないな」
僕は郁の髪を解き、ゴムを手首に入れた。
言葉の通り、僕は人の髪なんて切ったことはない。自分の前髪が精一杯である。しかし郁を美容院に連れていくわけにもいかないし、彼女もそれでいいというので了承した。
完成形を想像しながら、今の髪から引き算していく。パッと見でも二十センチは切る必要がありそうだ。思いきってざくざくとはさみを入れていくと、真っ直ぐな髪が新聞紙の上に落ちていった。
「お客さん、どうして今日はそんなに短く?」
「実は、失恋しちゃって……。だからそいつにショートにして可愛くなった私を見せつけてやるんです!」
「なんと! 腕が鳴りますねえ」
そんな他愛もない話を、僕は間違いなく幸せに感じていた。兄弟がいたらきっとこんな感じなのだろうと思う。そう思うからこそ、郁にはいなくなって欲しかったし、ずっと一緒に居て欲しくもあった。
長さをとりあえず揃えて、髪の量を調節しにかかった。クラスの女子の髪型を参考にしながら試行錯誤してみる。
そうして、なんとか最初に描いていた完成形に近づけたが、やはり素人には限界がある。
「お疲れ、終了しました! ほい、鏡」
僕は郁に手鏡を投げた。が、彼女がそれを受け取ることはできない。少し苦い表情をした彼女を見て僕はハッとしてから、手鏡を拾って郁の手に包ませ、僕の手も添えた。そうしてようやく鏡は彼女の手に収まり、姿を映し始めた。
「おお、本当に短くなったね! ねえ似合う? 可愛い?」
僕の方を見て笑う郁は、中学生の女の子そのものだった。髪が短くなったのもあるだろう、さらに幼く見える。
「可愛い可愛い。お客さんをフった彼も大損だったと腰を抜かすだろうよ! ……とおだてたところで一つ謝罪。左の髪がどうしてもはねちゃって。郁子おばさん許して!」
郁は自分の左の髪をいじって、僕の頭をコツンと叩いた。
「こんなんじゃあ私の願いを叶えたとは言えないな、もう一つお願いさせてもらうよ」
勝ち誇ったような笑みを見て僕はわざとらしくため息をついた。そんなことはハナから承知済みだ、きっと、この台詞を言ってみたかっただけだろう。
「そう言われたら断れないじゃないか。……とりあえず、母さんが帰ってくる前にここを片づけるわ」
そう言うと彼女は椅子から降りて、僕に肩のタオルを外させた。僕はそれをバサバサと振って髪の毛を落とし、床の新聞紙をまとめる。髪が床に残っていてもどうせ誰も気づかないのだろうけど、なんとなくちゃんと片づけた。
新聞紙を捨てに一階に降りて、燃えるゴミの袋に入れ終わった時に、ちょうど母が帰ってきた。
「あんた、何してるの?」
僕は一緒についてきた……というか背中にくっついていた郁に合図をして、背中から降ろした。
「何って、ばあちゃんに明日のゴミを玄関に置いとけって言われたから」
「あっそう」
母は納得したようで、祖母の寝ているリビングを目指した。僕はホッと胸をなで下ろして郁の方を向いた。
「恵美子は……」
その後は何も続かなかった。僕は彼女の手を引いて、リビングに向かった。