嘘と摂理と
「いや、結構だ。すぐに、やってくれ」
投げやりにマロトゥは答えた。彼の頭は、自分が生き延びられた事実でいっぱいで、他人のことなどどうでもよくなっていたのだ。
「ならバ、もう一仕事しテもラオう」
「仕事?」
「ソう、仕事だ。重要な、ナ」
そういって、竜は首をもたげて顎を――正確には、その下顎に突き刺さった長槍を――青年に向けた。槍は一枚だけ反り返った鱗を砕いて肉に埋まっている。反り返った鱗は『逆鱗』と呼ばれるもので、触れれば竜は怒り狂うと伝えられている。
「これを……?」
「抜くノダ」
なおも顔に疑問符を浮かべる青年に、竜が焦れたように説明する。
「この槍ハ、我と人間トノ誓いノ証。これがあッテハ我は貴様の願いヲ実行でキヌ。王族タる貴様なら、否、貴様にしか抜けヌのダ」
「わ、分かった」
マロトゥは困惑しながらも槍の柄を握った。滑るような感触。長い時を経て表面には砂塵がふいているにもかかわらず、その拵えは朽ちているようには見えない。第一、強靭な竜の鱗を木板のように貫いているところから見ても、この槍が在野の鍛冶師ごときに作られたものでないことは明白。マロトゥには理解の及ばない、特殊な槍なのだろう。だが、一体どのような人物がこんなものを?
「失礼……」
腕の力だけではびくともしない。マロトゥは逆鱗に触れないよう注意しながら、竜の下顎に片足をかけ、全身の力で槍を引いた。
槍はしばらく不動の姿勢を保っていたが、やがて観念したかのようにゆっくりと刃身の姿を現し始めた。
「ぐオ……ヲ……」
古傷を抉られているかのような――実際、読んで字の如きことが起こっているのだが――苦鳴が竜の喉からこぼれていた。
「るるううおおああるるううっ!!」
しかし、その痛みもそうは続かない。一層甲高い竜の苦悶とともに、ついに槍の全容が現れ、抵抗を失った青年の体は尻餅をついていた。
余人から見ても、その槍には呆れるしかなかったろう。柄の長さこそ直立した青年に頭二つ分加えた程度だが、その刃身は分厚く広く、長さは大の人間の伸ばした腕一本分。冗談のような大槍だ。そのようなものを体の一部としてきた事実は歴戦の竜をして、心胆寒からしめるものであったろう。
「礼ヲ……言うゾ」
「そりゃ、どうも」
両者とも疲労困憊という体で言葉を交わした。続けて何か言おうとしたマロトゥだったが、次の竜の動きに口を止めるしかなかった。
竜の背中の辺りが空気を破裂させるかのような勢いで展開したのだ。巻き上げられた砂に噎せながら転げるのを耐えたマロトゥが見上げると竜の背には、最前までは畳まれていたのだろう、一対の大翼が揺れていた。
剛、と一度だけ大きく吼えると、竜は翼を一打ち。轟音と風圧をその場に残し、発射という勢いを持って蒼天へ飛び上がっていった。
今度こそもんどりうって転げ回る羽目になったマロトゥは、呆然とそれを見送った。
翼の行く先は、マロトゥがオロパスと呼んだ都市だ。
●
雲をいくつか破裂させ、風を全身に浴びながら、巨竜は空を渡っていた。
スィナバルの思考は、いくつかの要素に支配されていた。
解放感、高揚感、喜び、破壊衝動、そして食欲に、だ。
その巨体を二枚の翼でどのようにして飛ばしたものか、速度と高度はぐんと伸びていく。
標的の真上から豪速で一撃を見舞う。彼自身意図して選んだわけでもないが、それがスィナバルのいつもの狩りの戦法だった。
酩酊にも似た高揚感に支配されながらも、竜は目的を忘れていない。眼下、時折雲に見え隠れしている、今は小石程度の大きさに見える都市。青年の差し出した生贄だ。
ゆったりと全身に浴びる風を惜しみつつ、スィナバルは急上昇。上向きの弧を描いて宙返りすると、鼻先を地表に向けた。その時には、竜の全身が下方へと突貫を開始している。普段は厭わしいだけの重力の軛も、こと狩りに関してだけは竜も感謝せざるを得なかった。
翼を一際強く打ち、亜音速に迫った巨影は、昼の流星となって都市へと墜ちていった。
●
破壊衝動、否、食欲のままに暴れる巨竜を、マロトゥは山上から見ていた。竜は直上からの突進によって、一番大きな建造物――王城を、それこそ砂作りの城のように粉砕した。着地するその足で民家と人を蹂躙しつつ、竜は突貫の速度を殺した。
しかし、竜はそこで止まらない。低高度で、しかし高速で飛び上がったのだ。四肢で民家群を撫でながら滑空する竜は、憐れにも通り道に立っていた尖塔を、その翼で根元から叩き折った。傾いていく尖塔はその角度まで計算されたか、洗われる芋のごとく大通りに詰めかけていた避難民らの頭上に影を作った。竜はそちらを一顧だにせず、更なる破壊を行わんと体を転じていった。
一応、王城付近には万一のことに備えて竜に対抗する兵団が詰めていたはずではあったが、竜の最初の一撃で無力化されてしまったようだった。
小さく、本当に小さく、竜の口元の辺りに人らしきものが引っかけられているのが見えた辺りからはもう、マロトゥは目を逸らしていた。しかし遠く離れているはずのマロトゥの耳には、それらの人々による悲鳴の大合奏が張り付いていた。幻聴か否か、青年にはもはや分からない。
父はもう喰われただろうか? 憎き弟はどうだろう? いつも自分に出し抜かれていた使用人たちはどうなった? マロトゥの脳で、思考がぐるぐると回る。
厳しいだけの父や政敵でしかない弟は、マロトゥにとって確かに疎ましかった。この祭壇に送られた時点で、死んでしまえと心中で罵ったこともある。が、本当にそれでよかったのか?
オロパスの人口がどのくらいか、どんな店があるのかという程度のことは、道楽公子として名の通っているマロトゥといえど基本知識として知っていた。
そう、知っていただけだ。
どこかで人が家庭を持ったり、苦労をして物を売ったり酒や料理を作ったり、笑顔を振り撒いたり。ただ享受してきただけのマロトゥは、そのことを解っていなかったのだ。
「違う、いや、そうだ、僕は……」
父や弟、女や使用人たちだけではない。無関係の人たちの営みまでも生贄に捧げたその意味に、マロトゥは今さらながらに気付いたのだった。
「うおぐぇっ……」
マロトゥは嘔吐した。遅れてのし掛かってきた重圧に、胃がねじ切れそうになっていた。わずかな内容物と胃液で構成された吐瀉物の海に膝をつき、青年は絶望と疑念に包まれながら、繰り広げられる宴の音を聞いていた。
食事と破壊が同時に行われる、竜だけが楽しい地獄の宴の音を。
●
帰ってきた巨竜が、山上の祭壇に影を作った。
出発時と変わらず、風圧と轟音を撒き散らしながら、しかし悠然と着地する。その表情に疲弊はなく、興奮の色が浅く残っていた。
「ヨイ運動にナった。我ハ気分がよイゾ」
正に一仕事終えてきたかのような口振りでスィナバルは高揚を噛み締めた。
『運動』とスィナバルは軽く言ったが、その凶悪無比な運動の跡は凄愴(せいそう)を極めていた。
マロトゥが暮らした王城も、愛した女の住居も、行きつけの酒場も何もかも、街の全てが瓦礫の山と化していた。もはやそれらがどの辺りにあったのか見当も付かない。