嘘と摂理と
その安定しない奇妙な抑揚の口調はどこかうんざりとしたような気配を匂わせていたが、マロトゥには竜の気持ちを慮る余裕はなかった。爬虫類の口と舌をどのように使ったものか、竜が器用に人語を操っているのだ。
マロトゥは息を呑み、ここ最近で何十度目かの驚きを表現した。
これが竜。マロトゥにとって、否、人間にとって世にも誇り高い、高位の存在だ。
「罪人ニしテハ小奇麗な着物ダ。ドこか名のアる家ノ出かヤ? 珍しイコともあルものダ」
「……僕は、これから君に喰われるのかい」
「ホ。一丁前に口をキきおッタわ」
何とか平常心をかき集め、声を絞り出したマロトゥだったが、竜は何か新しい玩具でも見つけたかのような――実際マロトゥに竜の表情は明確に読めていなかったが――そんな面持ちで返すだけだ。その尊大さの染み着いた竜の語調はむしろ、マロトゥを奮い立たせた。――彼自身が尊大に振る舞うことには慣れていたが、逆についてはその限りではなかったのだ。
「控えよ!! 私はオロッパス国次期国王第一候補、マロトゥ・ブヴァフカ・アル=オロパスなるぞ!! 無礼な振る舞いは……っ」
威勢のいい啖呵の語尾は、吹き付けられた竜の鼻息と唸り声にかき消された。鼻息の風圧に耐えられず、マロトゥは後方にすっ転んだ。頭布が宙に円を描きながらどこかへ飛んでいった。
「五月蠅イわ。だが名乗らレタのならコちらも返すガ道理。我ノ名はスィナバル。家名も称号もナい、たダのスィナバル」
スィナバルと名乗った巨竜の黄金の瞳は峻厳さと、少しの喜悦の色を孕んでいる。
「先の問イニ答えよウ。貴様の言ウ通り、我は貴様を喰らウ。覚悟はデきテオるか?」
啖呵を切ったときの青年の勇気が、塵芥のように吹き消されていった。
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竜の瞳にそんな能力があるのかどうか、マロトゥは尻餅をつき、すっかり青くなった顔で竜を見上げていた。足は竦み腰は抜け、どこまでも無様な姿を晒していた。
青年自身には知る由もないことだが、彼のこの反応はスィナバルの見てきた全ての罪人とまったく同じ反応だ。このこと自体、スィナバルにとっては何でもないことたが、興味を引いたのは別の一点にある。虚勢とはいえ反駁してきたのは後にも先にもマロトゥのみだったということだ。
悪くない玩具だ、と竜は思った。
「どウしたマロトゥとやラ? 先ほドノようニ勇まシく、何か言ってミるがよイ」
使える玩具だ、とも竜は思った。
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マロトゥの唯一の武装、自らが依って立つ家名が竜に対していささかの効果も発揮しなかったことで、彼にできる抵抗は早くも底を尽きたかに見えた。
(この竜、そこらの国の王族か父並みに偉そうな性格だ。畜生……?)
その時、マロトゥは内心の言葉の一部に引っかかりを覚え、ある一節を思い起こした。幼いころより聞かされてきた、誰でも知っている伝説。
(『竜は王族の人間の言うことだけは聞く』――)
思い立った瞬間、自分を喰わないように言おうとしたマロトゥだったが、彼はすぐにその口を閉じた。「貴様を喰う」と断言した竜が簡単にそれを撤回するとは思えなかったし、そもそも罪人に身をやつしたマロトゥが王族と見なされているかどうかさえも怪しかったからだ。
彼は元々、激情に駆られやすいものの、臆病な一面も持っている。先ほどの竜の鼻息によって振り切れたマロトゥの臆病さが、ここへ来て彼に冷静をもたらしていた。いまだ楽しげに自分を見下ろしている竜も無視して、マロトゥは思考を巡らせていた。
(「私は王族ですか?」なんて竜に聞くのは愚の骨頂。思い切っていくべきだ。そして、只の嘆願では舐められて終わる。ここは対等を保って……)
取引、という言葉を思った時、天啓とでも呼ぶべきものが青年の頭を過(よぎ)った。神によるものか悪魔によるものかまでは分からなかったが。
しかし、マロトゥはそれを口にすることを躊躇した。彼の頭に浮かんだ案は、ハジュが自らに擦り付けた罪の数々とおよそ比べものにならぬほど残忍で悍(おぞ)ましかったからだ。
「……言ウことは何もなイト見える。仕方あルまイ。なルベく時間をかケて味ワッてやる故、潔く死ネ」
「待ってくれ、竜よ。話がある」
スィナバルの無情な宣告に、マロトゥは割り込んだ。
躊躇している間は人間でいられたかもしれない。青年はそう思った。故郷の国には嫌いな奴ばかりでもなかったし、手ずから愛した女もいる。
しかしマロトゥの本質は臆病者で怖い物も人並みにあるが、何をおいても最も恐れているのが、死だ。
死んでしまえば酒を楽しめない。死んでしまえば喧嘩に明け暮れることもできない。死んでしまえば女も抱けない。
死んでしまえば、楽しめない。
生きて、生きて、生き延びる。命さえ残っていれば、立ち直ることだって不可能ではない。それが、この場においてのマロトゥの信仰だった。
「僕は、ここを生き延びたいんだ」
瞬間。
巌のような竜の全身から瞋恚の怒気が、轟、と膨れ上がった。
「考エ抜いてようヤク出た言葉が命乞いとハな。面白クナいぞ、人間」
その怒気は物理的な力すら伴ってマロトゥの体を圧倒しようとしていた。青年は挫けそうになる自らの体を叱咤して先を続けた。
「ま、まだだ! 続きがあるんだ。取引っ! 取引をしよう!」
「? 取引だト?」
スィナバルの黄金の瞳に興味の色を見て取った時、マロトゥは「いける」と踏んで内心で拳を握った。竜にとって自分はまだ王族だ、と。
「りゅ、竜よ。いや、スィナバルよ。こんなことを思ったことはないか? 『一度の食事に人間一人では少ない』と」
「ふム。人間一人でも飢えルことはナイ。ガ、確カに腹を満たシタいと思ウこトハあロうナ」
「ならば――」
この先からが、マロトゥが言うのを躊躇したものだ。この一線を越えれば、青年は人間ではいられなくなるだろう。
しかし、この時の躊躇はなぜか一瞬だった。
「ならば、この山の下にあるオロパスの国の人間、一人も余さず貴方に差し上げよう」
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青年と竜。両者の間を、黄褐色の砂を含んだ風が吹いてゆく。
数瞬の静寂の後、まず口を開いたのは竜の方だった。
「先ホドの言葉は訂正しヨう。貴様は面白い人間ダ」
その瞳に浮かぶ感情は、喜悦の上に嘲笑が新たに加わっていた。スィナバルにとり、人間というものは好んで同輩を殺す愚かな生物だ。同輩に殺されようとしている青年が、逆にその同輩を皆殺しにしようとしている様はスィナバルからすれば二重に面白い事柄だ。
我はこの者を待っておったのかもしれぬ、とスィナバルは思った。
「返答は?」
既に人として大事な一線を越えてしまったマロトゥが先を催促した。その口調は、現実から目を逸らすかのように無機的だ。
「……よかろう。貴様を喰らうのは止めておくとしよう」
「それじゃあ」
「ウむ、貴様の願イは聞き届ケタ」
厳かに竜が言い放った。マロトゥは驚きでその場にへたりこみ、安堵のため息とともに小さくか細く言葉を吐き出した。
「助かった……」
その呟きが聞こえているのかいないのか、平素と変わらぬ調子でスィナバルが問いかける。
「同族とノ別れは惜しマンデよいノか?」