嘘と摂理と
(これで助かる……街一つ引き換えにしたんだ。これで僕は助かる……)
汚物の上に蹲(うずくま)るマロトゥは自ら起こしてしまった麓の惨劇から必死に目を逸らしていた。
山を下り、どこかの国に身を寄せて落ち着いたら、何か償いをしよう――スィナバルが暴れている間中ずっとそのようなことを考え続けていたマロトゥだったが、彼がまず何よりも先にすべきことは、全力で山を下りることだったかもしれない。
「約定ハ果たしタゾ」
落ち着きを取り戻したスィナバルが厳かに告げた。マロトゥは涙と鼻水を袖で拭い、顔を上げる。
「……別れる前に一つ聞きたい。お前は、大昔に自分から忠誠を誓ったんじゃなかったのか? それが、なぜ僕の提案を受けたんだ?」
マロトゥがスィナバルの『運動』中、絶望とともに感じた疑念がこれだった。自らに槍まで刺させた誇り高い竜がどうしてこのような真似を?
「別レの前、カ。今は気分モヨいから答エてやロウ」
牙を覗かせて喋る竜の表情は、どことなく笑っているように見えた。覗いた牙の端に挟まった食べ残しの肉片から、マロトゥは目を背けた。
「貴様ら人間どモノ知る言い伝エ。アレは事実ではナイ。人族を守ろウト思ッたことナド微塵もなイ」
一瞬、竜の言葉の意味を斟酌しかね、マロトゥの驚きは一拍遅れた。
「っ!? ばっ、馬鹿を言うな! それならなぜ生贄をとるような真似を……」
「逸ルナ、黙って聞ケ。我がコノ地に降リた時、人族どモは武器ヲ手ニ、我に立ち向カッてきたのダ。……当時ノ武具は、現在のもノトは質が違ったカらナ」
逃げたかどうかも分からない、先ほどの衛兵らが持っていたくたびれた短剣と、今は脇に転がされている錆一つ浮いていない大槍。どちらが竜の鱗に抗し得るかは比べるまでもない。
「それデモ大部分ハ殺し、喰っタ。が、この槍ノ持チ主、彼奴ダケは別だっタ」
竜が知性を持ち闘争に喜ぶ種である証なのか、その瞳には往時の戦を懐かしむ色が浮かんでいる。
「彼奴は我を槍ニヨって縛リ、こう言っタ。お前はコの地、この山に留マレ、と。お前がイレバ街を襲う獣ドモは皆逃ゲる、とモナ」
「それならなぜ、あの伝説が生まれたんだ? 嘘を言い伝える必要がどこに……」
「……王族がコこに来た理由ガ今分カッタぞ。その頭の悪サデは排されタノも頷ける……。分からヌカ。我を飼い殺せルと思わナカっタ連中もいタノダ。そやツらに軍でも差シ向けラレ我が死ねば、獣ドモは再び人族ドモを襲ウのだゾ?」
そこまで言われてようやくマロトゥにも得心がいった。竜の口振りでは、彼との戦いでの生き残りは槍を刺した張本人のみ。その人物が「竜は人間に忠誠を誓った」と情報を操作することで竜を守り、平和を長く保とうとしたのだ。
「そういうわけがあったのか……て、あれ?」
ここで、マロトゥの思考は数十分ほど過去に戻る。自分は一体、何に確信を得て街を生贄に捧げたのだったか?
(『竜は王族の人間の言うことだけは聞く』――)
青年には伝説の真実など知る由もなかった。これが嘘となると、それはつまり――
「つまりそれは……」
「王族ノ血は美味と聞いテイてナ」
あまりにも唐突に、スィナバルは話題を変えた。
「そレは先ホド我が舌で確認した通りでアったが……貴様一人ヲ喰うノデハつまラぬかラな」
マロトゥは後ずさった。眼前の竜が何を言っているのか、聞きたくないのに頭の中に入ってくる。この竜は、自らを縛る槍を抜かせるために一芝居打ったのだ。しかもマロトゥという玩具を遊び倒した上で、だ。
「りゅっ、竜が、約、約束を破るのかっ!?」
「貴様ガ何を言っテイルのか分カらヌガ……約束は守っテヤったゾ? 貴様ヲ生キ『延び』さセテやっタ」
最後の悪あがきと言わんばかりのマロトゥの抗弁だったが、スィナバルはさも心外そうに答えてやった。
「我ハ貴様を喰うノヲ一旦止めるト言ったダけ。勘違イハ貴様の勝手ダ」
マロトゥは理解した。竜は誇り高い生物ではない。知性を持ち、狡猾に嘘を吐き、そして食欲に忠実な、体が大きいだけの人間と大差ないのだと。
「言葉はモウ要るマい――デハ」
瞬間、竜の首が鞭のように撓(しな)り、顎が目にも留まらぬ速さでマロトゥを捉えた。視界が赤黒に支配されたと思った時、彼の体が、上半身と下半身が血の涙をもって泣き別れた。
上半身だけとなったマロトゥの意識は、口腔内にあってもなお保たれていた。
その残り二秒以下の命で、彼は苦痛に叫ぶよりも、牙に挟まる何者かの肉片に向けて詫びることを選んだのだった。
〈了〉