君にこの声がとどくように
太陽が沈む前に、二つのアウトリガーの取り付けを終わらせた。
次の日は水上に船を出し、櫂を使った船の進め方、舵の取り方を練習する。
対岸までは約十キロメートル。
素人が櫂のみで進むには現実的な距離ではない。それが、実際に船を漕いでみたナインが持った感想だ。
そこでザックは帆を取り付けることを提案する。ヨーン河は上流から下流へ向けて風が吹いているため、一直線に渡るだけならば複雑な操作を必要しない。
帆の取り付けに一日、操船の練習にまた一日と、時は過ぎていった。
アゴを訪れて六日目、ナインはギルバートとともに出航した。
風を左から受け、二人を乗せた船はゆっくりとしかし確実に進む。後方にアゴの街が見えなくなると、周囲に見えるものは河の水面だけとなる。
彼らの左頬をくすぐる風だけが、進むべき方向を教えてくれる。
「ニイチャン、あっと、クオンさんだっけ?」
舳先に陣取るギルバートは、櫂を漕ぐ手を止めて振り返った。
「本当の名前はナインっていうんだ」
「なんかややこしいね」
「好きに呼んでくれて構わない」
ナインも櫂を漕ぐ手を止める。
満帆とまではいかないが、帆は充分に膨らんでいる。二人ともが漕ぐのを止めても、船が止まることはない。
「じゃあニイチャン。頼みがあるんだ」
「なに?」
その一瞬、風はその歌声を止めた。
「おいらを……殺して欲しいんだ」
左から右へと、風が気持ちよく吹き抜けていった。
しかしその風も船上の二人を包む沈黙を流すには至らない。互いに見据えたまま、繋がった視線を断とうともしない。
「それは無理な相談だね」
ギルバートは返ってくる答えが分かっていたかのように、ナインの口が開いた瞬間にナイフを抜く。
「血を落とすよ? おいらを殺して止めないと、サメが寄ってきてニイチャンも食べられちゃうよ?」
ナインは櫂を置き、剣を手に取った。
「たとえば、この剣でキミの首を撥ねたとしても血は流れる。僕はどちらにしろ河鮫に襲われてしまう」
ナインは剣を置き、櫂を手に取った。
そして大きく二回漕ぐと、船はぐんと速度を上げた。
「コツを掴んだみたいだ」
ナインは笑いかけたが、ギルバートは笑い返さなかった。
「漁師のオッチャンに毒を盛られたとき、これで死ねると思ったんだ」
「やっぱり覚えていたんだね」
「でもニイチャンはおいらを助けちまった。その責任を取って、おいらを殺しておくれよ」
ナインはゆっくりと首を振り、ギルバートはふぅとため息をついた。
「人を探してんだ。おいらを殺してくれる人を」
くすんだ瞳は深い悲しみの色を放っている。ナインはそんな瞳を見たことがあった。
ナインと同じく、父に憧れ、父の期待に応えようと励み、父を越えようとした男。父の背中を追うあまり、父の影に捕われてしまった哀れな男。
その男の名はニアライト・アラン。もう一人の自分だ。
ナインはその名を忘れはしない。
「殺して欲しいと僕に頼んできたのは、キミで二人目だよ」
その言葉はギルバートにとって意外なものだったらしい。
何らかの希望を見出したのか、見開いた目で身を乗り出す。
「その人はどうなったの?」
ナインはその問いに対して微笑むだけで何も答えなかった。その微笑みに、ギルバートは察したらしい。
「世の中ってさ、不公平だよね」
ギルバートはそう言いながら後ろ向きに倒れこんだ。舳先から頭だけが出ている。
青い空を行く雲は、ゆっくりと下流へ進んでいた。
「聞かせてよ、どうしてそんなこと頼んだのかを」
「おいらの首があれば、仇を取れるんだよ。おいらの首をフロンティアに持っていけば、ねえちゃんも助けられるんだ。おいらを守るためにねえちゃんは黙って言うこと聞くしかないんだ。おいらのせいなんだ。おいらのせいなんだよ」
ギルバートは涙ながらに叫び続けていた。
弱冠十二歳の少年が、一体どれほどの業を背負っているというのか。
フロンティアに着いたあと、この少年は自分を殺してくれと頼んで周るのだろうか。
それを思うと、ナインの胸はきゅうと締め付けられる。
水平線に対岸の港が見えてきた。
フロンティア進出の足掛かりとなるこの港は、すでに街と呼べる規模に達している。近いうちにアゴとは違う名前が付けられるだろう。
ここから二人は別行動を取ることになっているが、ナインはそれでいいのかと思い始めていた。
様々な人が集まるフロンティアであれば、ギルバートの頼みを二つ返事で引き受ける者がいるだろう。しかしそれは本当にこの少年が願うものなのだろうか。
自ら命を絶つ選択肢だってある。
ならば、『殺して欲しい』という頼みは、『助けて』という合図なのではないのか。
もしそうならば、このまま別れることは少年を見捨てることになるのではないか。
ナインは葛藤を続けていた。
「ニイチャン、あれ見て」
すっかり落ち着いていたギルバートは、遠い水面を指さした。
鮫の背びれと思われる三角の物体が、水面を切り裂いて進んでいた。進行方向はこちらではなく、すぐに沈んで見えなくなってしまった。
ナインはギルバートの顔が恐怖に歪んだその一瞬を見逃さなかった。そして、この少年は死にたいわけではないのだという確信を持つに至る。
助けてと泣き叫ぶ少年を見捨てて、どんな顔をしてキャスに会えばいいのだろう。
ナインはその思考から逃げるように、一心不乱に漕ぎ続けた。
次の日は水上に船を出し、櫂を使った船の進め方、舵の取り方を練習する。
対岸までは約十キロメートル。
素人が櫂のみで進むには現実的な距離ではない。それが、実際に船を漕いでみたナインが持った感想だ。
そこでザックは帆を取り付けることを提案する。ヨーン河は上流から下流へ向けて風が吹いているため、一直線に渡るだけならば複雑な操作を必要しない。
帆の取り付けに一日、操船の練習にまた一日と、時は過ぎていった。
アゴを訪れて六日目、ナインはギルバートとともに出航した。
風を左から受け、二人を乗せた船はゆっくりとしかし確実に進む。後方にアゴの街が見えなくなると、周囲に見えるものは河の水面だけとなる。
彼らの左頬をくすぐる風だけが、進むべき方向を教えてくれる。
「ニイチャン、あっと、クオンさんだっけ?」
舳先に陣取るギルバートは、櫂を漕ぐ手を止めて振り返った。
「本当の名前はナインっていうんだ」
「なんかややこしいね」
「好きに呼んでくれて構わない」
ナインも櫂を漕ぐ手を止める。
満帆とまではいかないが、帆は充分に膨らんでいる。二人ともが漕ぐのを止めても、船が止まることはない。
「じゃあニイチャン。頼みがあるんだ」
「なに?」
その一瞬、風はその歌声を止めた。
「おいらを……殺して欲しいんだ」
左から右へと、風が気持ちよく吹き抜けていった。
しかしその風も船上の二人を包む沈黙を流すには至らない。互いに見据えたまま、繋がった視線を断とうともしない。
「それは無理な相談だね」
ギルバートは返ってくる答えが分かっていたかのように、ナインの口が開いた瞬間にナイフを抜く。
「血を落とすよ? おいらを殺して止めないと、サメが寄ってきてニイチャンも食べられちゃうよ?」
ナインは櫂を置き、剣を手に取った。
「たとえば、この剣でキミの首を撥ねたとしても血は流れる。僕はどちらにしろ河鮫に襲われてしまう」
ナインは剣を置き、櫂を手に取った。
そして大きく二回漕ぐと、船はぐんと速度を上げた。
「コツを掴んだみたいだ」
ナインは笑いかけたが、ギルバートは笑い返さなかった。
「漁師のオッチャンに毒を盛られたとき、これで死ねると思ったんだ」
「やっぱり覚えていたんだね」
「でもニイチャンはおいらを助けちまった。その責任を取って、おいらを殺しておくれよ」
ナインはゆっくりと首を振り、ギルバートはふぅとため息をついた。
「人を探してんだ。おいらを殺してくれる人を」
くすんだ瞳は深い悲しみの色を放っている。ナインはそんな瞳を見たことがあった。
ナインと同じく、父に憧れ、父の期待に応えようと励み、父を越えようとした男。父の背中を追うあまり、父の影に捕われてしまった哀れな男。
その男の名はニアライト・アラン。もう一人の自分だ。
ナインはその名を忘れはしない。
「殺して欲しいと僕に頼んできたのは、キミで二人目だよ」
その言葉はギルバートにとって意外なものだったらしい。
何らかの希望を見出したのか、見開いた目で身を乗り出す。
「その人はどうなったの?」
ナインはその問いに対して微笑むだけで何も答えなかった。その微笑みに、ギルバートは察したらしい。
「世の中ってさ、不公平だよね」
ギルバートはそう言いながら後ろ向きに倒れこんだ。舳先から頭だけが出ている。
青い空を行く雲は、ゆっくりと下流へ進んでいた。
「聞かせてよ、どうしてそんなこと頼んだのかを」
「おいらの首があれば、仇を取れるんだよ。おいらの首をフロンティアに持っていけば、ねえちゃんも助けられるんだ。おいらを守るためにねえちゃんは黙って言うこと聞くしかないんだ。おいらのせいなんだ。おいらのせいなんだよ」
ギルバートは涙ながらに叫び続けていた。
弱冠十二歳の少年が、一体どれほどの業を背負っているというのか。
フロンティアに着いたあと、この少年は自分を殺してくれと頼んで周るのだろうか。
それを思うと、ナインの胸はきゅうと締め付けられる。
水平線に対岸の港が見えてきた。
フロンティア進出の足掛かりとなるこの港は、すでに街と呼べる規模に達している。近いうちにアゴとは違う名前が付けられるだろう。
ここから二人は別行動を取ることになっているが、ナインはそれでいいのかと思い始めていた。
様々な人が集まるフロンティアであれば、ギルバートの頼みを二つ返事で引き受ける者がいるだろう。しかしそれは本当にこの少年が願うものなのだろうか。
自ら命を絶つ選択肢だってある。
ならば、『殺して欲しい』という頼みは、『助けて』という合図なのではないのか。
もしそうならば、このまま別れることは少年を見捨てることになるのではないか。
ナインは葛藤を続けていた。
「ニイチャン、あれ見て」
すっかり落ち着いていたギルバートは、遠い水面を指さした。
鮫の背びれと思われる三角の物体が、水面を切り裂いて進んでいた。進行方向はこちらではなく、すぐに沈んで見えなくなってしまった。
ナインはギルバートの顔が恐怖に歪んだその一瞬を見逃さなかった。そして、この少年は死にたいわけではないのだという確信を持つに至る。
助けてと泣き叫ぶ少年を見捨てて、どんな顔をしてキャスに会えばいいのだろう。
ナインはその思考から逃げるように、一心不乱に漕ぎ続けた。
作品名:君にこの声がとどくように 作家名:村崎右近