キスキス・モー
気が付くと、目の前にはナースキャップを被った中年女性の顔。
「先生、意識が戻りました」
彼女が振り向きながらそう言うと、今度は白衣を着た太眉の男性が視界に入る。
「本村美香さん、ですね?気分はどうですか?ここは市の総合病院ですよ」
モトムラ・ミカ。私の名前……総合病院?ここが?じゃあこの人は医者で、さっきのは……看護師さん?
「――あと少しでも処置が遅れていたら、母子共に危険な状態でした」
「え……?ぼ、し……?」
太眉の医師が看護師に頷く。そこで私はようやく、自分のお腹にかつてあった膨らみがなくなっていることに気付いた。まさか、あのときと同じ――?いや……赤ちゃん……私の赤ちゃんは?!
「おめでとうございます。二千百グラム。少し小さいですが、元気な男の子ですよ」
「……え?」
私の胸の上に、布でくるまれた小さなかたまりが置かれる。あったかい……?指で布をよけると、手のひらよりも小さい、皺くちゃな顔があった。目元が少し夫に似ているような気がする。
でも……本当に?この子が私の子なんだと、喜んでしまっていいのだろうか?あとになって夢だったなんて、そんなことは――?
「旦那さんも、もうすぐ着く頃だと思いますよ。先ほどご連絡しておきましたので」
「え?どうやって?あたし、メモ……」
「あら。しっかり握っていましたよ、旦那さんのお名前と電話番号が書かれたメモ。あなたのお名前は旦那さんから伺いました。――ほら、そこに」
看護師が指す棚の上には、見覚えのあるディズニー柄のメモが置かれていた。端が少し破れてはいるが、確かにあれは私が書いた字。でも、どうして?あのとき届かなかったハズなのに――
「美香!!」
院内はお静かにー!の声を背に病室へ飛び込んで来たのは、私の夫、康之だった。外仕事の彼は所々に泥の跡がついた作業着のまま、赤い顔で息をきらしている。
「康之……?」
「ああっ美香、無事でよかっ――」
私を抱き締めようと両手を広げて歩み寄ったが、直前でピタリと止まった。彼の視線は私の胸の上に注がれている。初めて見る我が子に戸惑っているようだ。
そんな夫の姿を見て、急に実感が湧いてきた。
――この人の、子供。この子は、私たち二人の子なんだ。この胸の小さな温もりを、どれほど願い続けてきたか。肌で感じる、確かな命。じわじわと湧き上がるのは、これまで味わったどの感情とも違っていた。先ほどまで強張っていた顔が、思わず緩む。
「ふふ……ほら、触ってあげて?」
夫は手を出したり引っ込めたりしながら、ようやく我が子の頬に触れた。赤みがかった小さな頬がくぼむのを見ると、夫の目からは大粒の涙がこぼれた。
「――おっ、俺……」
「康之?」
初めて見る夫の姿に少し戸惑いながらも、これから語られる彼の言葉を一言も聞き漏らすまいとじっと耳を傾ける。
「……俺、怖かったんだ。この子を失うのもそうだけど、もしかしたらお前がまた、辛い思いするんじゃないかって……男の俺は見ていることしかできなくて、お前に何もしてやれなくて。もし、今度はお前の身にも何かあったらって思うと、すごく不安で……でもお前は俺よりずっと大きな不安抱えてるだろうから、こんな弱気なこと言えなくて……」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、必死に言葉を紡ぐ。そんな夫の姿に、私の目にも涙が滲む。なんだ、そうだったんだ。この人も……不安だったんだ。
「……ばかね」
この言葉は自分自身にも向けられていた。ほんのちょっとのすれ違い。お互いが不安を見せまいと意地を張り、気を揉んで疲弊し、いつの間にか素直に向き合えなくなっていた。ただ、それだけのこと。
夫は微笑む私の頭をひと撫ですると、耳元で囁いた。
「頑張ってくれてありがとう。――愛してる」
「――……!!」
夫の口から初めて聞く言葉。「好き」の気持ちは伝え合っても、照れ屋な彼は、その言葉だけは決して口にしなかった。そう分かっていながら、私が心のどこかで求め続けてきた言葉。
私の中にあったドロドロとした醜い感情が、溢れる涙と共に流れてゆく。これまでの苦しみが嘘だったかのように、全てが浄化され、彼への純粋な愛しさが心に還る。
彼は私の反応を見て照れくさそうに笑ってから、お前もな、と息子の額にそっとキスをした。
キス――……
「モー……」
夫に視線を向け、頭に浮かんだ彼のことを尋ねる。
「モーは?……それに私、どうやってここへ?救急車、呼べなかったのに――」
すると私たちの様子を静観していた看護師がこちらへ歩み寄り、それが不思議なのよ、と語りだす。太眉の医師はお役御免と思ったのか、お大事に、と小さくひとこと言い残してその場を去り、病室には一家三人と看護師の、四人だけが残った。
初めは、別の通報だった。私が意識朦朧としていた頃だ。アパートの前で男の子を撥ねたと運転手から通報があり、救急車は急いで現地へ向かった。
怯えて確認していないという運転手が指さす方向には、恐らく撥ねた後驚いて突っ込んだのだろう、白のバンに、道端の道路標識がめり込んでいた。救急隊員は車の下や周りをくまなく探すが、人の姿は見当たらない。イタズラかとも思い始めた隊員は、せめて目撃者がいないかと目の前のアパート、最も現場に近い部屋を訪ねる。
そこが、私たちの部屋。半開きになった扉を不自然に思った救急隊員は声を掛けながら取っ手を引く。そして、台所に血を流して倒れる私の姿を発見したのだ。急いで応急処置が施され、私はこの病院へと運ばれた。
「……? 男の子、は?」
私の問い掛けを予想していたかのように、看護師はそうなのよ!と話を続ける。
「これは私も後になって聞いたんだけどね、あらためて警察が調べるとやっぱり男の子なんていなくて、数メートル離れたところに猫の死体が転がってたって。その猫の様子から見て、運転手は猫を撥ねて、人と勘違いしたんだろうって言うのよ〜。でもおかしいでしょ?今この話題で持ちきりで――」
完全に世間話と化した看護師の言葉を遮り、その中の一つの言葉だけを反芻する。猫――?眠る我が子を抱く胸は、上下に大きく揺れる。
「その、猫って、どんな――?」
「ん?白地に黒のブチらしいわよ?」
看護師の信じがたい言葉に、その場で叫び声をあげそうになる。不思議なまでの確信が、私の正気を奪っていく。
モー――!!
夫も我が家の猫と気付いたらしく、驚きの表情を見せる。
ああ、何ということだろう?!私はあのとき、モーに助けを求めた。それを聞いたモーは?玄関へ向かったわ。それから?!必死に記憶の糸を手繰り寄せる。サイレンが聞こえた……違う、私は聞いたわ。その前。モーの姿が見えなくなってすぐ。大きなブレーキの音、小さな鈍い衝突音、何かが壊れる音。それからしばらくして、サイレンが……。
白い雪の上に浮かぶ、モーの黒。
猫には不思議な力があるって聞いたわ。あの話は年老いた猫だった?でも、もしモーがその力を使ったんだとしたら?私のために人の姿をして、自ら車の前に飛び出たのだとしたら?