キスキス・モー
「キスキス、モー」。これを言い出したのはモーを迎えて一年ほど経ってからだろうか。普段から色んなことを話しかけていたが、特に変わった反応はなく、鳴き声もたいてい同じようなものだった。しかしこの言葉を言ったときだけ、いつもと違った声で鳴き、決まって私の鼻をひと舐めする。その鳴き方が何だか牛に似ていて、モーにはピッタリだった。
元々は「好き好き、モー」と言っていたが、反応がイマイチだったため「スキスキ」を「キスキス」に変えたところすっかり定着し、それ以来、私とモーの間だけでの合言葉となった。夫には単純すぎると笑われたが、この言葉を言っても反応してもらえないヒガミだろうと解釈し、フフンと鼻を鳴らして聞き流した。
「あんた、すごいね。分かるんだもんね?ふふ……」
不安を抱えつつも、モーが居てくれるお陰でそれなりに充実した毎日だった。
それから約半年、梅雨の鬱陶しい雨に嫌気がさしてきた頃、急な吐き気を覚える。確かに月のものは予定よりも遅れていたが、ぬか喜びになってはいけないからと、買い置きの検査薬も引き出しに入ったままだった。前回の妊娠でつわりは殆んどなく初めての感覚だったが、慌ててトイレへ向かうと検査薬の窓には陽性の印がハッキリ浮かび上がった。
「で…」
手を洗うのも忘れて勢いよくトイレから出る。
「できたー!!!!」
一人で万歳の体勢をとると、急に開いた扉にぶつかりそうになったモーに睨まれ、すぐ我に返る。もう一度トイレへ戻って手を洗うと、子供ができることへの躊躇いも忘れ、モーを抱きかかえて頬ずりする。
「モーも応援してくれてたんだよね!モー、キスキス、モー!」
「なぉーーーん」
くしゅっ、ペロリ。そのくすぐったさや手にかかるモーの重さ、外に降りしきる雨音にさえ、全てに幸せを感じた。「キスキス、モー」のやりとりを繰り返しながら布団のない炬燵に座り、ウキウキと夫の帰りを待った。
しかし帰って報告を聞いた夫の表情を見て、浮かれた気分はすぐに萎んでしまった。
もちろん、喜んではくれた。ホントか!やったー!と私と同じく万歳もしてくれたが、問題はその前だ。私の言葉を聞いた夫の頬が、一瞬引きつって見えた。目にも、不安の色が霞めた……気がした。
結局そのあと抱き締められうやむやになってしまったが、あれは考えすぎだったんだろうか?もしこの人が、私との子供を持つことに、躊躇っているんだとしたら――?いや、そんな理由はない。あたしだって、不安はあるもの。そうよ、ほら、喜んでくれているじゃない。自分に言い聞かせる。
翌日産婦人科へ行くと、妊娠二ヶ月と言われた。前回別れの時となった七週をすでに越えていることを知り、ほっと胸を撫で下ろす。予定日は二月三十日。その後の定期健診も順調だった。
日々成長する我が子に愛しさを募らせる。つわりは酷かったが、急につわりが止まることの怖さを考えると吐き気はむしろ安心感を与えてくれた。お腹の中に確かに子供がいるという、証。
それに三度目の結婚記念日とともに妊娠七ヶ月を迎えた今では、その辛さもすっかり忘れるほどに落ち着いていた。少し腰がだるいが、愛しい命を支える重さと思うと、全く苦にはならなかった。時々お腹を蹴る足は力強く、物理的な感触だけでなく、気持ちも何だかくすぐったかった。
夫も事あるごとに私のお腹へ耳を当てては、たわいもないことを語りかけた。幸せの風景にしか見えないような状況。それでも、時折迫りくる不安は拭えなかった。この子は無事に生まれてくれるだろうか……妊娠を報告したときの夫の表情も、忘れた頃になっては脳裏によぎる。
モーはというと、大きくなるお腹にすっかりメロメロの二人に呆れてか、最近少しご機嫌ななめだ。いつもの「キスキス、モー」にも、このところ反応が鈍い。ヤキモチでも妬いているのだろうか。
そんな様子でモーとは少しギクシャクしたまま、妊娠九ヶ月目に入った。
何かあったときのために、夫の携帯番号を控えたディズニー柄のメモを磁石で冷蔵庫に貼り付けておいたし、自分の携帯の短縮にはワンタッチで夫の番号が出るよう、登録し直した。これで何とかなるだろう。あとは約一ヶ月、ゆっくり心の準備を進めていこう……そう、思っていた。
週の初め。いつも通りにキスで夫を送り出す。日曜は雪道に車を走らせ、二人でベビー服を見に行った。生まれてくる子の性別はお楽しみにとっておいたため、無難な黄色や、淡い緑のものを買った。大きなお腹を抱えて店内をまわる自分たちの姿がガラス窓に映ると、溢れる幸せについ頬が緩む。
その間、モーはお留守番で、帰って来た私たちをムスッとした顔で迎えた。それが寂しいからなのか自分も外に出たいからなのか、家を空けた後は決まってこんな顔をする。私は大きいお腹に気を遣いながら、屈んでモーを抱き上げる。
「キスキス、モー」
鼻は寄せてきたものの、返事はない。するりと私の腕から逃れ、奥の部屋へ行ってしまった。
「ま、明日には機嫌も直ってるさ」
そのときは夫の言葉を素直に受け取った。しかしモーは今日もどうやら、虫の居所がよくないらしい。ご飯のときだけは出て来るが、雪晴れの空に鳴きもせず、炬燵に潜り込んだままだ。私はひとつため息をつくと、
「ねーぇ、モー。仲直りしようよぉ?」
炬燵布団をまくって覗き込むと、気に障ったのか、反対側から出てそのまま奥の部屋へ行ってしまった。
「モー、待ってよ」
後を追おうと立ち上がったとき、下腹部に激痛が襲った。たまらずその場にへたり込む。
「な……に?コレ……いったぁ……」
そのまま身動きがとれなくなった。初めて経験する痛みに戸惑いながら、顔をしかめる。
陣痛?…って、もう来るものだっけ?とにかく夫に電話しようと手を伸ばす。炬燵の右端にある、小物入れ。だがそこには、いつもあるはずのそこには、ない。私の携帯。
「なん…でぇ?」
痛みで言葉が切れ切れになる。お腹を両手で抱えながらなんとか思考を巡らすと、ひとつのことが思い当たった。――車だ。昨日出掛けた際に携帯を夫の車のシートに置き忘れ、取りに行かなきゃと思っていたのに……。
このままじゃ駄目だ。外に出て、助けを……お隣さんに、救急車を呼んでもらおう……。這いずりながら台所へ向かう。玄関はその先だ。ふと、連絡メモを思い出す。そうだ、あれ持って行かないと……。だが、痛みでとても立ち上がれそうにない。
「何であたし、あんな高いとこ……バカ……」
いつもは目線の高さである場所に貼り付けたメモが、この時ばかりは絶望的に高く見える。床に張り付いた姿勢のまま手を伸ばしてみるが、それでもメモは一メートル以上先だ。せめて少しでも起き上がろうと力を入れた瞬間、さらなる激痛が体を駆け巡った。
「ぅあっ!!」
もう駄目…動けない……顔だけを動かすと、視界に赤色が飛び込んだ。マタニティワンピースの一部が、赤く染まっている。血……?何で……?
――ぼろっと、涙が溢れた。先ほどから痛みで涙目ではあったが、この涙は次から次へと溢れ出てくる。感情よりも先に反応した涙腺に、悟る。
「お別れって……こと?もう無理って……こと?」