キスキス・モー
キスキス・モー
二人きりでの海外挙式から、もう二年が経った。
一年目なんてあっという間。帰国してすぐは、お土産配りや友人たちとの食事会。また、結婚式が十一月末だったため、業者に頼んだ写真ができあがるとすぐに、結婚報告入り年賀状の作成に取り掛かった。といっても実際に作成するのはあくまで全国展開のカメラ屋で、自分は数十種類あるデザインから好きなものを選ぶくらいだったが。
それでも、気付けば師走ももう終わり。結婚して初めてのクリスマス、という実感もたいしてないまま大晦日を迎え、同棲時代と何も変わらない雰囲気の中蕎麦を食べた。正月には両家をまわり、例の年賀状の話題に花を咲かせた。
一人で夫の実家へ遊びに行くことも増え、優しいお姑さんにおいしいコーヒーを入れてもらいながら、幼い頃のアルバムを眺めたりして親交を深めていった。
そうこうしているうちに念願だったハネムーンベイビーがお腹にいると分かり、まさに幸せの絶頂だった。
……でも、今の私に子供はいない。
妊娠七週目で、赤ちゃんはいなくなった。流産だった。前からお腹の中での成長が遅いと言われていて、何やら専門用語を並べられたが、全く耳には入ってこなかった。染色体の異常で、3人に一人が経験することと説明されても、その確率の壁を越えられなかった私は自分を責め続けた。
「次は大丈夫だよ」周りはそう励ましで言ってくれたが、「この子」が戻るわけじゃない。大丈夫?何が?慰めの言葉にもつい刺々しくなってしまう。人に気遣う余裕などなかった。だって、私の体の中で、一つの小さな命が消えてしまったのだ。この世界の空気を一度も吸うことなく。
私が殺してしまった、何がいけなかった?次?そもそも、こんな私にまた幸せの種など来てくれるのだろうか?来たとしても、私は二人も殺してしまうことになるかもしれない……
不安は尽きなかった。何より、夫の顔を見るのが怖かった。言葉では優しく気遣ってくれるが、本心はどう思っているんだろう?本当は私を責めているんじゃないか?日々荒んでいく心は、進む時間に委ねる他なかった。
一年目の結婚記念日を迎える頃にはだいぶ落ち着き、周囲への気遣いも取り戻せるようになっていた。残念がる相手に「ありがとう」と言えるようにもなった。夫の目も、真っ直ぐ見られるようになった。それでもやはり、胸の奥には底知れぬ不安が燻っていた。あの日から二年近く経つ今でもそうだ。
行為を敬遠しているわけではない。しかし毎月のものは、順調すぎるほどに続いている。不妊治療を考えたこともあったが、一度の辛い経験が、それを遠ざけた。まだできないのは、まだ時期じゃないからだ。来年は家を建てる計画をしているし、その場所で落ち着いたらきっと……。そう自分に言い聞かせ、自然にまかせる。
「なぁーぉ」
炬燵で頬杖をつく私に、五年前から共に暮らす猫、モーが擦り寄ってきた。夫とまだ初々しい付き合いをしていた頃、ペットショップデートで出会い、私が一目惚れしてしまった。小さかった当時から柄はハッキリしていて、まるで牛みたい。だから、「モー」。
元々ペット好きだった彼も私の強い推しに負け、近所では珍しいペットOKのアパートを探して移り住んだ。そのときから、ずっと一緒。2DKのこのアパートで毎年かなり早めに出す炬燵の中が、モーの特等席。
「どうしたの?お腹すいた?」
「なぁーぉ…」
モーのおやつを取りに立ち上がろうとする私を制するように、膝の上に乗ってくる。丸くなって体勢が落ち着くと、ゆっくり私の顔を見上げた。普段は滅多に鳴かないモー。鳴くのはお腹がすいたときと、晴れて外へ出たいとき。それと――私が落ち込んでいるとき。
「なに?考え事してるの分かっちゃった?慰めてくれてるの?」
優しく頭を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らす。今思えば、この子の存在はかなり大きい。飼い始めた頃から、私たちが喧嘩をすると間に入っておろおろしてしまう優しい仔なのは知っていたが、私が一番落ち込んでいたとき、モーは私の傍を離れようとしなかった。あっち行ってよ、と冷たい態度で八つ当たりする私にも、愛想を尽かさず頬を摺り寄せてきた。毎日、毎日。そんな姿を見て、決して人前では見せないような大泣きをした覚えがある。
子供がいない私たち夫婦にとって、モーはまさに一人息子のような存在だった。もし私たちが二人っきりなら、きっと今でもぎくしゃくしていたに違いない。モーは私たち、いや、特に私にとって、決して欠くことのできない大切な存在だった。
「ねぇモー、パパ、どう思ってるのかな?やっぱり、赤ちゃん欲しいよね?」
モーの前でだけ、私たち夫婦は互いをパパ、ママと呼び合う。初めはなんだかくすぐったかった。
「最近さー、何だか自信がないんだよね」
このときが番素直になれる。友達にも親にも言えない悩みを、いつもモーに聞いてもらう。
自信がない。それが最近の悩みだった。高校を卒業してからすぐに就職した私は、地元の体育館で行われていたスポーツのクラブチームで七つ年上の今の夫と出会い、付き合い始めた。
お互いに働きながら交際を続け、二年後には同棲を始めた。初めは反対した両親も、夫の人柄と、結婚を前提に……というハッキリとした宣言により、同棲を認めた。それから喧嘩しては仲直りを繰り返し、交際四年目の夏にプロポーズされた。そして五年目の秋に、結婚。会社は寿退社した。
夫は誠実な人だ。浮気の心配はまずいらない。気持ちの在り処より、大きさが心配だった。私に対しての気持ちは、萎んでしまっていないだろうか?最近、私に興味がなくなってきたんじゃないか?と不意に思う。
特に大きな何かがあったわけじゃない。話を聞かない、こちらを振り向かずに話す、何度言っても靴下を裏返しに脱ぐ、返事が遅い、冷たい気がする――ひとつひとつはほんの些細なことだから、強くは言うに言えない。
そんなことが積もって、今自分のなかに中くらいのしこりができている。まだ当分もげることはないだろう。けれどこのまま不安を溜め込み続けたら……?大きくなったしこりが首を傾け、そこから血を流す日は近いのかもしれない。
二十五歳。自分の年齢を見つめ直して、よからぬことを考えるときもある。夫は、三十二歳。世間の感覚はよく分からないが、遅すぎるってことはないにしろ、中途半端になってしまうかもしれない。そんな考え方をしている自分が、堪らなく嫌になる。何で私はいつもこう、受身なんだ――
カプッ
モーがいつの間にか撫でるのをやめていた私の手を甘く噛む。
「あ…あはは、ごめんごめん、また考え込んじゃってたね」
出会った頃より三倍近くなった重い体を持ち上げる。モーは抵抗することなく私を見つめたまま、己の体を垂れさせている。
私はその鼻に自分の鼻を寄せると、小さな声で言った。
「キスキス、モー」
「なぉーーーん」
一度くしゅっと顔を崩しいつもと違う声で鳴くと、モーは私の鼻の頭をペロッと舐めた。