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ただ書く人
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火曜日の恋

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「雨の日はちょっと……」と彼女は先ほどとは違う、曖昧な微笑みを見せた。
それはわたしの言葉に警戒や不愉快な態度を示したのではなく、かといって気恥ずかしい様子でもなく、言い難い何かがあるようだった。体を冷やすといけない持病でもあるのかもしれない。わたしはこう思って、特に追求はしなかった。
「あなたは大学ですか。いつもS大学のある駅まで行かれていますね」
彼女が自分を知っていてくれたことにうれしくなり、わたしは遅ればせながら簡単に自己紹介をして、彼女も素性を話してくれた。
 彼女の名は礼子と言い、年はわたしよりひとつ下だった。高校を卒業してからは家業の手伝いをしていると言う。家業とは華道や茶道の家元でもしているのだろう、とわたしは勝手に推測し納得していた。
 ふと気づくと、わたしの右側に立っていた中年女性が、訝しげにわたしを見ていた。電車の中で、それもドアを挟んだ距離で、自己紹介をしていれば、それは確かにおかしな光景だろう。わたしはそう思ったが、今さら礼子のそばに移動するのもおかしいだろうと思い、そのまま話を続けた。
「M駅には大きな遊園地がありますね」
「はい。一度行ってみたかったのですが……。友人と約束をしていましたけれど、行かれなくなってしまいました」
「そうでしたか。わたしも行ったことはないのです。そうだ。よろしければ、今度その遊園地にいっしょに行ってみませんか」わたしがこう言うと、彼女は窓の外に視線をそらした。
わたしはまたも後悔した。これはあまりに唐突すぎた。今日初めて会話した相手を誘うだなんて、どうしてこんなことをしてしまったのだろう。わたしは決してそのような男ではない。相手が彼女だから、彼女が美しい微笑みをわたしに見せてくれたから、つい舞い上がってしまったのだ。普段はこのようなことを言いはしない。女性を誘うような言葉を口にしたのは、これが初めてのことだ。
 わたしは何か言い訳をしようとしたが、思ったように言葉が出ず、彼女とは逆に車内に顔を向けた。すぐ横では中年女性が未だ訝しげな、むしろ怒ったような顔をしてわたしを見ていた。このような場所で遠慮も無しに彼女を誘うわたしに、女性を代表して怒っているのかもしれない。わたしはすぐに視線を元に戻した。
 彼女ももう窓の外を見ておらず、わたしが手に持ったかばんのあたりを見つめていた。白い頬に少し赤みがさしているようにも見えた。今日は雨も降っていないし、かばんも汚れていないはずだ。もしかしたら靴が汚いのかもしれない。今日はどの靴を履いてきたのだったかと、わたしは自分の足元を見た。大丈夫。わたしが一番気に入っている、今日の服装にも合っているはずの靴だ。
「その……、あなたがよろしければ是非……」彼女はわたしのかばんを見つめたまま小さな声でいった。
当然断られるものだと思っていたので、意外な言葉にわたしの胸はひとつ大きく鼓動し、それを合図に腹部の臓器が浮き上がるってくるように感じた。実際にわたしの体が少し浮いたのかもしれない。
 わたしの降りる駅が近づいたこともあり、この日はその後少し彼女と言葉を交わしたのみだった。わたしはすっかり舞い上がってしまって、電車を降りてもまだ体が浮いているかのような足取りでホームを歩いた。しかし、実際にいつ遊園地に行くのかも彼女の連絡先も聞かなかったことを思い出して、急に足の裏のアスファルトを強く感じた。

 翌日、この日は午後にひとつ授業があるのみだったが、わたしは八時過ぎの電車に乗れるように家を出た。彼女と会って連絡先を交換しなければ、と考えたのだった。しかし、家を出るまで気づかなかったのだが、この日は小雨が降っていた。雨ならば彼女はいないかもしれない、と思ったが、この程度の雨ならばと思い直して、わたしは駅に向かった。
 わたしの期待は外れ、いつもの場所に彼女はいなかった。そしてまたそこには中年女性が立っていた。前日にわたしを訝しげに見ていたあの中年女性だった。その中年女性はわたしを見るとすぐに声をかけてきた。「すみません。あなた、礼子ちゃんの知り合いですか」
わたしは驚いて中年女性の顔を見つめた。この女性がいっているのは彼女のことなのか。ならばどうして昨日は何も声をかけなかったのだろう。彼女がわたしと話していたから遠慮をしたのかもしれない。
「ええ。あの、昨日の礼子さんのことですよね」
「はい。あなたが礼子ちゃんの名前や、あの遊園地のことなどを言ってらしたのを聞いて、気になってしまいまして」中年女性は遠慮をしている、というよりも警戒しているような雰囲気を見せながら話を続けた。「礼子ちゃんのことをご存知なんですか」
「ええ」昨日のわたしたちを見て、話を聞いていたのなら大体のことはわかるだろう、と思いつつわたしは短く返事をした。
「そうですか……。もしかして礼子ちゃんといっしょに遊園地に行くお約束をしていたのはあなたなのかしら。その、本当にあの時は……」
中年女性の言うことは少しおかしい、と思い今度はわたしが訝った顔で女性を見た。
「その、大変失礼ですが、昨日はひとりで、まるで礼子ちゃんと話しているかのようで。まだ辛いのだと思いますけれど……」
「何をおっしゃっているのですか。昨日わたしは礼子さんと話していたではありませんか」
「え。いえ。ですから、辛いのだと思いますけれど、その、心をしっかり強く持って……」中年女性は腫れ物に触るように、少し怯えながらわたしに言った。
「すみません、どういうことでしょうか」わたしは思わず語気を強めた。
「あのう、もしかしてご存知ないのかしら」

 わたしは電車を降りて、まだ少し込んでいる上り列車に乗り込んだ。
 中年女性は彼女、礼子の近所に住む者で、幼い頃から彼女を知っているとのことだった。その中年女性の話によると、礼子はもう亡くなっていた。
 昨年の秋、礼子は友人といっしょに遊園地に行く約束があって出かけていった。あいにくの雨だったが午後には晴れる予報になっており、礼子は父親に駅まで送られてうれしそうに駅に駆け込んでいったそうだ。その後すぐ、礼子は電車に轢かれたという。とても自殺をするようには思えず、周囲の目撃者によるとふらふらと倒れ込むようにしてホームから落ちていった、とのことだったので、体に何らかの不調があった上での事故とされていた。
 わたしは何度も礼子を見かけており、前日には話もしている。当然中年女性に反論した。中年女性の知っている礼子とは別人なのだろう、とも思った。しかし、確認させてほしい、といって中年女性が差し出した携帯電話に表示されている写真を見ると、それは確かにわたしの知っている礼子だった。中年女性によると、それは礼子の姉の結婚式後の写真らしい。その姉と思われるドレスの女性の右側に、女子高の制服に身を包んだ礼子の姿があった。
 わたしの話を聞いた中年女性は、最初は信じていないようだったが、最後にぽつりとこう言った。「礼子ちゃん、まだ遊園地に行こうとしているのかもしれませんね」

 中年女性はわたしに礼子の家と墓の場所を教えてくれた。礼子の家はわたしの自宅からそれほど遠くなく、わたしがいつも利用している駅から上り方面にひとつ隣の駅の近くだった。
作品名:火曜日の恋 作家名:ただ書く人