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ただ書く人
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火曜日の恋

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わたしは毎週火曜日を楽しみにしていた。長い夏の休みが明けて最初の火曜日ともなれば、なおさらのことだった。
 火曜日は週に一度だけの一限から授業がある日で、わたしはいつも自宅の最寄り駅から朝八時過ぎの電車に乗って大学に向かっていた。通勤や通学の時間だが、下り方面なのでさほど混雑はしておらず、座席と吊り革がすべて埋まっている程度だ。それでもわたしは少しでも混雑を避けるためにいつもホームの端まで歩き、比較的空いている先頭車両に乗るようにしていた。
 この日もホームの端まで歩いてそこから反対側の上り方面を見ると、会社員たちが体を押し付けあっている上りの急行列車がちょうど到着したところで、そこにさらに会社員たちが押し込まれていく様子が見えた。ああはなりたくないものだ、と思いながら、ニ年後には自分もあちら側にいるのだろう、それを何十年も続けるのだろう、と嫌気がさしてきた。
 しかし、こちら側のホームに下り列車が入ってくると、そんな気持ちもすぐに忘れてしまった。いつも通り先頭車両の前からふたつ目のドアから乗り込み、いつも通りそのドアの横に立ち壁に軽く肩をつけて寄りかかる。手に持ったかばんの中から文庫本を取り出しながら、ちらりとドアを挟んで反対側に立つ人影を確認する。
 今日もいた。
 窓からの光に照らされて白く輝く肌。肩に掛かる長さのまっすぐな黒髪。手に持っている淡い緑やピンクの布でできたかばんは、いかにも彼女に似合っている。九月も半ばを過ぎたとはいえまだ暑く、車両には半袖の学生たちが目立つ中、真っ白なブラウスにベージュのカーディガンを羽織り、膝丈のスカートを履いていた。足元には丸みを帯びた、これも彼女のイメージにぴたりと合うパンプスを履き、その足元を見るように顔を少し伏せていた。
 どこの誰かはわからないが、わたしは彼女に対して、恋、といえるかどうかも曖昧な、ただその姿を見るとうれしくなる、そんな感情を抱いていた。火曜日の朝、彼女はいつもその場所に乗っており、わたしが降りる大学前の駅でも降りずに、もっと先まで向かうようだった。毎日この時間に乗っているのだろうか。学生だろうか。会社勤めをしているようには見えない。裕福な家庭のお嬢さんが稽古事に向かっている、といった雰囲気だった。
 彼女はいつも顔を伏せて足元を見ていたが、まれにふと顔を上げることがあった。そんな時、知らず知らずに彼女を見つめていたわたしは、顔を上げた彼女と目が合って、慌てて手元の文庫本に視線を落としたり、窓から外に目をやったりしていた。
 今日もそうして窓から外の街並みを見た。電車に並走している自動車に白いビニール袋のようなものが引っかかっている。家の屋根の上にもある。電柱にも白い物が見えた。今日は風が強いからな、と思いながら、横目で彼女の方を確認すると、彼女も外を見ているようだった。
 やがて電車はわたしが通う大学前の駅に到着した。降りるためにドアの正面に移動し、あえて彼女の方を見ないようにして立つと、そのわたしを彼女がじっと見つめているように感じた。もしかして、彼女もわたしに興味を持ってくれているのだろうか。いや、自意識過剰というものだ。それでも少しうれしくなりながら、わたしは電車を降りホームを歩いて階段に向かった。

 次の火曜日は、雨が降っていた。少し雨に濡れたのか、わたしの持つ茶色い革のかばんには黒っぽい染みのようなものが広がっていた。それを気にして指先でこすりながら、わたしはいつも通りホームの端まで歩いた。
 今日は彼女に会える日だ。汚れたかばんを持っていると思われたらかなわないな。こう思って、わたしはかばんの濡れた面を内向きにして持ち直した。電車が到着する案内が放送され、ホームに入ってくる電車をなんとなく見ていると、先頭車両のライトの下に大きな黒い汚れが付いていた。ペンキで塗ったようにも見えたが、この雨で泥でもはねたのだろうか。
 電車に乗り込むと、わたしは例のごとくいつも彼女が立っている場所を見たが、そこには彼女ではなく中年の女性が立っていた。雨の日は少し電車が込むので、この場所が空いていなかったのだろうか。あるいは、今日はいないのかもしれない。彼女がどこかにいることを期待をしてわたしは車内を見回したが、彼女の姿は見えなかった。わたしは肩透かしを食らったような気分になって、小さくため息をもらし続けて大きく息を吸い込んだ。その吸い込んだ空気に、雨の日らしい湿った、そして生臭いようなものを感じ、わたしは不快に思いつつ文庫本を取り出してかばんの向きを変えた。

 十月ともなれば、さすがに半袖ではいられない。わたしは、あなたには似合わない、と母に笑われた細身のジャケットを着て駅に向かった。日差しが強いこともあって、駅まで歩くと少し暑かったが、ジャケットは脱がずにホームで電車を待った。この日は火曜日で、彼女はきっとこんな服装が好きなのではないかと思っていた。
 到着した電車の中、彼女はいつものようにドアの横に立っていた。わたしもいつも通りその反対側に立って、ちらりと彼女を見やった。その瞬間彼女と目が合ってしまい、わたしは慌ててドアについている窓に視線を移した。するとこの日も、電車に並走している自動車に白いビニール袋が引っかかっているのが見えた。
「何か見えますか」
突然声が聞こえて、わたしは彼女に顔を向けた。
「何か見えますか」彼女はわたしを見つめながら、再び同じことを言った。
 想像していた通りの美しい声。決して大きな声ではないが、落ち着いたその声は、電車の走行音や学生たちの話し声の中でもはっきりとわたしの耳に届いた。
「ええ、見てください。車にビニール袋が」
ああ、どうしてわたしはこんなにもつまらないことを言ってしまうのだろうか。言ってからすぐ、いや、言いながらわたしは後悔していた。しかし彼女は、わたしが指した窓の外を覗き込むように見て「まあ、おかしいですね」と微笑んでくれた。どこか儚げで弱々しいが、その笑顔はとても美しく、かわいらしかった。ありきたりな表現だが、まるでどこかのお姫様か、あるいは我々人間とは異なる、天使や女神のようではないか。
 かくも美しい彼女にわたしのようなつまらない学生が言葉をかけてもいいものだろうか、と気後れしながらも、わたしは勇気を出して彼女に尋ねた。「今日はどこに行かれるのですか」
「はい。M駅までまいります」と彼女は頷いた。
そこはわたしが降りる大学前の駅よりもふたつ先の、大きな遊園地が近くにある駅だった。確か服飾関係の専門学校も近かったはずだ。
 学生なのか。仕事があるのか。あるいは稽古事でもあるのか。初めて言葉を交わしたばかりでそういったことを聞くのは憚られ、しかしそれらが推測できるようにわたしは質問をした。「毎日この時間の電車に乗っているのですか」
「ええ。でも、乗っていない時もあります」
「そういえば、先週はいらっしゃらなかった」わたしはこう言ってから、ひどく悔やんだ。
これでは先週彼女を探したことが、彼女がいるかどうかをいつも気にしていることが、彼女にわかってしまうではないか。わたしは恥ずかしくなって、「すみません」と何に対する謝罪なのかわからない言葉を口にした。
作品名:火曜日の恋 作家名:ただ書く人