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宙ぶらりん

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 翌日の昼、晴れた空の下を歩いて、アキラとの待ち合わせ場所である大学の正門前に着いてみると、そこには驚くべき光景が僕を待ち受けていた。
 平和な昼下がりのキャンパス正門前で、1人の男が、別のもう1人の男に向かって、あろうことか土下座をしている。額をアスファルトに擦りつけている気の弱そうな男は、目の前の男に怯え切って酷く動揺しているようで、肩を震わせながら途切れ途切れに発する言葉は全く日本語の体裁をとっていなかった。周囲の学生たちは皆その様子に怪訝な眼差しを向けながらも、いつもと変わらぬ日常に突如現れた非日常などによって自身の平和を脅かされぬよう、2人の男から十分に距離を取ってその場を通り過ぎていく。あたかもそこが神聖過ぎて入れない場所であるかのように、土下座ショーの周りに半径5mほどの不可侵めいた空間ができあがっていた。
 いつもの僕なら、他の学生と同じように、見て見ぬふりをしてその場をやり過ごしていたことだろう。力なき者達が理不尽に傷付けられることに対して憤りを感じないわけではない。しかし、そうかと言って、僕もまた力なき者であることに変わりはなく、そんな僕が彼らを救えるわけではないし、ならば痛い目に合うのは正直に言って勘弁願いたいものだ。ずっとそういう風に、自分に弁解をして生きてきた。
 しかし、今日の僕は違う。他の誰も立ち入らないその空間にただ独り攻め込み、僕は2人に近付いていった。
 昨日、自分と向き合おうと心に決めたのだから。弱者が蹂躙されているその光景を目の当たりにした瞬間、ここで逃げることはきっと、自分が大切にしたい何かを、自身の臆病さによって汚してしまうことであるように、僕には感じられたから。だから、ここで逃げてはいけないのだ。

 という理由からでは決してなかった。僕が2人に近付いたのは、単に両者とも僕の知り合いだったから、というだけの話であった。
 すなわち、僕の目の前で、アキラに対して下田が土下座をしていたのである。

 僕に気付いたアキラは、母親を見つけて安心した迷子のような安堵の笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってきた。相変わらずホストのようなヘアスタイルで黒の革ジャンをぴっちりと着こなしている。傍目には、ひ弱な男子学生がまた1人、暴虐なチンピラの餌食になろうとしているように見えるだろう。
「アキラ、久しぶり」
「おうおうシノちゃん助かったよ。ちょっとさ、この人、いくら言っても頭あげてくれないんだもん。とりあえずここ離れようぜ。俺らまで恥ずかしくてしょうがねぇわ」
 僕は下田の方を見た。今もなお見事な土下座の姿勢をキープし続けている。彼はもはや何も言葉を発していなかった。
「こいつ、僕の友達なんだけどさ、なんでこんなことになっちゃってるの?」
「え、まじ? シノちゃん顔広いねぇさすがは俺のソウルメイト。いやあのね、俺が普通にここでシノちゃんのこと待ってたらさ、この人が向こうから来たんだけど、俺の横通る時にすげぇ見下した感じの目つきで俺のこと睨んでくんの。そんなの納得行かねぇじゃん、だから俺は当然のことだけど理由を聞いたのよ、『なに睨んでんの?』って。それだけだよ。そりゃちょっと左手で胸倉つかんだり右手にサックはめたりくらいのことはしたけどさ、それだけだよ。そしたらこの人もういきなりテンパっちゃって、ヘブライ語かよって言いたくなるような訳わかんないこと口走ったと思ったらいきなり土下座しだしてよ、そっから5分くらいずっとこのまんまなの。ちょっとシノちゃんからも何か言ってやってよ」
 僕は下田を半ば無理やりに立ち上がらせたが、僕が彼の肩にかけた腕を離すや否や、彼は傀儡子に見放されたマリオネットのように膝から崩れ落ちて、今度は出来損いの体育座りみたいな体制になった。アキラが「ぶふっ」と笑いを堪える音が背後から聞こえた。下田は僕の問いかけに何の応答もせず、ただ視線をアスファルトに向けたままうなだれている。彼の自尊心は今ここに存在していないようだ。
 おそらくアキラの供述していることは事実だったのだろう。下田には、軽蔑している者に対して嫌悪感を露骨に態度で示す習性がある。講義中に教室の後ろの方の席を陣取り俗悪な話題でうるさく盛り上がっている学生達のことを、彼はいつも蔑んだ目で睨みつけたり、講義終了後すれ違えば舌打ちを浴びせたりしている。彼は決して気の強い方ではないが、一応ながら国立大学であるこの学校のキャンパス内において、その程度のことで火花散る喧嘩など起こる由もないだろうと高をくくっているのだ。そんな彼にとって、ホストかチンピラか分からないような出で立ちの「学生」が、自身の所属する大学の敷地内でガムをくちゃくちゃ噛みながら携帯電話をいじっている姿など、まさに蔑視光線を放つに御あつらえ向きだったのだろう。その「学生」が、実はキャンパス外からやってきたストリートギャング集団のカリスマ統領であるとも知らずに。
 放心状態の彼の心の中には、絶望と虚無が渦巻いているのだろう。自分が最も軽蔑する類の人間に崇高なプライドを傷付けられ、己の無力さを痛感している。彼の心中を推し量ると僕も胸が痛むが、しかし、本当にそれでいいのだろうか。暴力に生きるのは知性の敗北だなどと豪語しておきながら、現実においていざその暴力に脅かされると、便宜上で屈服するだけにとどまらず、大切なプライドまで完膚無きまでにズタズタにされてしまうなんて、そんな脆弱な自尊心で良いのだろうか。唾棄すべき暴君にいざ直面したとき、彼の自尊心の源であったはずの「知識・教養・広い視野」は、何一つ抗力を発揮しなかった。自信満々で乗り込んでいた大船は、初めて経験した嵐によって脆くも崩壊し、役に立たない木片へと姿を変えてしまったのである。彼は今、もはや何に希望を見い出してよいのか分からず、投げ出された暗い絶望の海の底に沈んでいるのだろう。
 僕は少しだけ、下田に寄り添いたいような気持ちになった。
「ごめん、えぇと、何君だっけ?」
 アキラが下田に話しかける。
「…しもだ」
 下田は辛うじて答えた。
「下田くん、えぇと、シノちゃんの友達とも知らずにさっきはごめんねん。これあげるから、許してくらはい。仲良くしてちょ」
 アキラは革ジャンの裏ポケットからチェルシーの箱を取り出して中身を1つ下田に渡した。下田はそれを受け取ると、虚ろな表情のまま袋を開けてチェルシーを噛み始める。まるで自分の意志では動いていないかのように機械的な動作だった。自分の名前を答えることと、チェルシーを噛むことだけができるようにプログラミングされたロボット『SHIMODA』、などという想像を不覚にもしてしまい、僕は笑いが込み上げてくるのを必死に堪えた。
作品名:宙ぶらりん 作家名:おろち