宙ぶらりん
下宿にて、本屋で購入した2冊の小説を続けざまに読んでいたらあっという間に夜になっていた。雑念の虜になっている今の自分をまだ読書だけは没頭の世界に誘い得るのだと気付き僕は少しだけ安心した。フィクションから現実の世界に舞い戻ってきた今、昼間の下田への怒りはもはやどうでもよいものとなっており、昨日の博美との邂逅の記憶だけが、また僕を憂鬱にさせる。怒りの感情が割合すぐに解消されるのに比べて、悲哀というものは何故こういつまでも人の心に居座ろうとするのだろう。6畳の広さの室内が、暗い藍色に淀んだ空気で充満していく。
携帯電話が鳴った。実家で暮らす妹からだった。着信音に設定している山崎まさよしがサビを歌い終えたタイミングで電話に出る。
「はい、もしもし」
「もしもしおにい、いま大丈夫? ちょっと相談いい?」
「うん大丈夫」
「ありがとう。あのさ、おにいはさ、前付き合ってた彼女さんに、その、ある程度長い期間、そっけなくしちゃったことってある?」
「ないよ。向こうには何度もそっけなくされたけど」
妹は現在高校2年生である。末っ子にして我が家に初めての女の子ということで家族一同から寵愛を一身に受けながら、幼少の頃から突飛な行動の数々で一家を散々振り回してきた彼女は現在、どこでどう知り合ったのか僕には分からない23歳のミュージシャン志望と交際をしている。妹の今回の相談ごとを要約すると、『今までずっと懇ろに構ってくれていた彼氏が、最近そっけなくなった』らしい。連絡が来る頻度も減ったし、こちらから連絡しても以前のように「会おう」という流れになかなか至らないそうだ。
「彼氏さん、今、バンドだっけ、そっちが忙しい時期だったりするの?」
「うん、なんかね、名前忘れたけど、どっかの割と有名らしいレーベルが主催のコンテストに向けて、曲作ったり練習したりしてる。優勝したらそのレーベルからCDデビューできるんだって」
「そうなのか。すごいな。いや、あのな、前の彼女の僕に対する振る舞いを見ていて感じた、言わば経験則なんだけど、恋人にそっけなくしてしまう場合には、2通りあると思う」
「なになに?」
「1つは、相手のことを大切に思えなくなった時や、他に好きな人ができた時。これは説明しなくても分かるよな。それともう1つは、何かに熱中してそれに打ち込んでいる時。博美…あぁ、彼女は博美っていう名前だったんだけど、博美は部活の大事な試合が近付いてきたりすると、僕に全然構ってくれなくなった。そんで試合が終わるとまた元通りに接してくれるようになるんだ。まぁ元からデレデレするタイプじゃなかったから、そこまで大きな違いはなかったんだけど、なんて言うのかな。博美が部活に熱中しているときって、一時的に彼女の心の中に僕が不在な感じ。だから、未穂の彼氏さんにとって、今の未穂はそんな感じなんじゃないかなって、思う」
妹が僕の言ったことを頭の中で咀嚼しているらしく、ここで少し間ができた。自分はいつから妹に対してこんな風に恥ずかしげもなく過去の恋愛話ができるようになったのだろうと、ふと思った。ついでに小便をしたいことにも気付いたが、妹の声によってまた僕の頭は通話の世界に舞い戻らされることになった。
「それよくわかんない」
「わかんないか」
「うん。だって、何かを頑張ってるときってさ、頑張ってる分だけ辛いこともあるわけでしょ。そういう大変な時に、その人を癒してあげるのが恋人ってもんじゃないの? そういう時こそ支えてほしいって思うものなんじゃないの? 苦しい時に頼りにされないなら、何のために私が存在してるのかわかんなくなるよ」
「未穂の気持ちは分かるよ。僕も同じように感じたことが何度もあった。でも、僕みたいに何かに打ち込んだ経験のない人はなかなか実感しにくいけどさ、何かに熱中している状態って、もう心のベクトルがそっちだけに向いている状態なんだよ。そしてそういう時ってさ、自分はこれに夢中になって取り組んでいるだけで、充実した気持ちで暮らしていけるっていう、そんな自信みたいなものが、無意識のうちに起こるんだろうね。だから誰の助けもいらないし、分厚い壁も1人でカチ割っていける。ちょっと違うかもしれないけど、僕は小説を読んでいるときは、物語の世界に入り込んで、他のことは何も考えない。夢中になっているからね。未穂も、いつものパクリエロ漫画描いてるときは、彼氏のことなんか忘れてるだろ?」
「ちょっとおにい、パクリエロ漫画じゃないよ。あれはね、インスパイアって言ってもっと高尚な…」
「まぁそれはいいよ。とにかく、何かにのめり込んでる時って、辛いことがあろうがなんだろうが、心がすごく安定した状態になってるんだよ。反対に、とりわけしんどいことが無くても、ベクトルが向く先を決められてなくて、心の拠り所がどこにもない状態のときは、不安定なんだ。そういう時に支えてもらいたくて、誰かに甘える。そんな自分でも認めてもらえるんだって、確認できるための相手が欲しくなるんだよ。大部分の人はきっと」
「うーん…そんなもんかなぁ」
「未穂の彼氏さんは優しいんだろ。だったら色々落ち着いた後で、美穂のこと放ったらかしにしてすまなかったって、そこで気付いて反省するんじゃないかな。とりあえず今は、それを信じて、頑張ってる彼氏さんを見守ってあげなよ」
経験豊富な兄の持つ大人の分別や包容力を妹に見せつけるかのように助言をした。実際は元恋人にまつわる僕の経験など、どの部分を切り取っても目も当てられないものばかりだというのに。
「まぁ、不安だけど、ちょっと信じて待ってみるよ。ありがとう」
これでこの議題には一通り区切りが付いた。ここで通話を終えることもできたのだが、敬愛してやまない妹との久しぶりの会話なのでもう1テーマほど歓談を交わそうと決めた。小便はもう少し我慢できそうだ。
「未穂は、彼氏さんのどこが好きなの?」
「えー、難しいな。でもやっぱり、私のことよく見てくれてる気がするから、そういうとこかな。辛いときとか、私が口に出さなくても、なんか知らないけど気付いてくれるし、つまんない嘘とかついてもすぐにばれちゃう。そういうのって、なんか大切に思ってもらってる感じがするんだよね。頭悪いくせにそういう所はすごいなぁって、素直に関心しちゃう」
「連立方程式解けないんだよね。彼氏さん」
「そうそう。良い歳して私よりだいぶ常識無いから、色々びっくりさせられるよ。ちょっと前にも、今度ヨーロッパへ旅行に行こうって言われてさ。ヨーロッパのどこに行く? って聞き返したら、キョトンとされて。あいつ、ヨーロッパってパリみたいに都市の名前だと思ってたんだよ。そのときはさすがにちょっと私の顔が引き攣ったけどね。まぁでも、馬鹿だけど、一直線で一生懸命なとこがかわいいし、かっこいいよ。私のことも、音楽のことも」
明日は久しぶりにアキラに会う、と言うことについて話して、妹との通話を終えた。彼の大ファンである妹は鼻息を荒くして「アキラさんによろしくお伝えくださいお兄様」と僕に伝言を授けてきたがきっと僕は明日になればそのことを忘れているだろう。そんな未来予想をしながら僕は7時間分蓄えた小便を便器にすがすがしく放出した。