宙ぶらりん
結局その電話では、翌日の昼に大学でアキラと会って試聴会の前に大学内を案内する約束を取りきめた。高校にさえ(『ジハード』と彼が呼ぶ対抗勢力との闘争のために乗り込んだ以外では)行ったことのない彼には、キャンパスの内側というのは月の裏側と同じように未知の世界で興味津津の対象らしい。
電話をかける前よりは格段に晴れやかな気持ちで通話を終えた。
ベンチの隣には、下田が座っている。通話の途中から彼が隣にいることには気付いていたが、会話が盛り上がっていたため放ったらかしにしてしまった。彼はひざにお盆を乗せて食堂の生姜焼き定食を食べているが、眉間に皺を寄せたその表情はまるでタガメの煮っ転がしでも食べさせられているのかのように不快感を全面に表していた。
「遅いよ」
「ごめん、ちょっと話しこんでしまった」
「全く、なんでこんな寒いなか外で飯を食わないといけないんだ」
下田は1人で食事をしている所を人に見られたくないらしい。食堂のお盆をわざわざここまで運んできて食べているのだ。
「しかも、人が食事している隣で、なんて下品で低俗な話をしてるんだよ。飯がまずくなるだろう。一体誰と話していたんだ?」
「幼馴染。いいやつだよ。向井理に似てる」
「なるほどな。そいつの喋っている声も聞こえていたから、会話の内容はほとんど分かったけれど、そいつ、多分俺の最も嫌いな人種だな。刹那的で感情的で、長期的視座で物を考えることのできない人間。その日暮らしの楽しみ方しか知らないタイプだ。それくらい、今の電話を聞いただけでも俺にはすぐに分かるね。おまけに自分の性欲を包み隠さず剥き出しにしている極めて下賎な人間」
食堂に独りで待たせてしまったことが相当に彼を苛立たせているらしい。確かに申し訳なかったが、それにしても、せっかちなタイプの人間というのは何故こうも些細なことの1つ1つにカリカリできるのだろう。これではどちらが刹那的で感情的なのか分かったものではない。
「アキラは、言うことは下品かもしれないけど、下田が想像しているような下種な奴とは少し違うと思うな。まず、あいつは僕や下田と同じで、童貞だよ。昔から女性恐怖症で、女の子とまともに会話することさえままならないんだ。中学のとき1度だけ別の学校の女の子とデートしたんだけど、歩いてる途中、向こうに手を繋がれただけで鼻血が3時間も止まらなくなって、結局その後もうまくいかなくなってしまった。あいつはそんな感じだからね。そのコンプレックスに負けないくらい突き抜けた自分でありたくて、ずっとツッパり続けてるんだよ」
「事情はどうあれ、理性の貧しい刹那主義人間であることには変わりないんだろ。劣等感を暴力で解消するしかできないなんて、分別を持って生きるべき人間としては終わっているな。力が物を言うのなんてアニマルの世界くらいなもんだろ。人間は思考することに特化した生き物であり、よく学び長期的視座に立って頭を使うことによって価値のある存在になれるんだ。力に逃げるなんていうのは知性の敗北だよ」
下田は僕と目を合わせないまま、僕の親友を記号的な言葉で淡々とこき降ろしていく。ひょっとしたら彼は、食堂で待たされたことに腹を立てているだけではなく、昔アキラのようなお調子者のガキ大将にいじめられた経験があり、電話を聞いてその時の怨念が沸々と蘇ったのではないだろうかと、僕は思いを巡らせた。
しかしとにかく、いくら自分のせいで苛立たせてしまったとは言え、たった数分の会話内容などを根拠に、大切な友人のことをここまで勝手に悪く言われて、さすがの僕も少し腹が立ってきた。
「そうかもしれないな。じゃぁ、刹那主義人間の幼馴染として、僕も今から刹那主義者になる。なんとなく3限に出る気が起こらないので今日はもう帰ります。僕の分のレジュメとか、取っといてくれなくていいから。じゃぁまた」
「おい、ちょっと待てよ! 俺まだ食い終わってないだろ!」
知ったことではない。僕は立ち上がり、後ろを振り返ることもなく帰路のスタートを切った。下田が発した何かしらの言葉が二言、三言、背中にぶつかったが、僕はその内容が罵倒なのか弁解なのかを識別しようともせず、いつもより速いペースで歩みを進めた。
やっと下田の声が聞こえなくなったくらいのタイミングで、そう言えばいま肩に提げているこのショルダーバッグについても下田に難癖を付けられたことがある、ということを思い出し、僕は道に落ちていた栄養ドリンクの瓶を割れない程度に蹴る。キャンバス素材の安っぽさや傷の多さなどについて指摘した挙句、『身に付ける物の良し悪しで当人の意識が変わるし周囲がその人を見る目も変わる。物に気を遣うのも自己管理の1つだ』という理論を僕に押し付けた。別に反論する気はないが、君には言われたくはないと思った。下田は持ち物をブランド物で固めてはいるが、服は全体的にブカブカでサイズ感が合っておらず、色調も茶色に近い地味なものばかりを選ぶので、全体のコーディネートは例えて言えば「初めて作った煮物」をモチーフにしたかのようになっている。ファッションに疎い僕でさえ、下田の出で立ちが周囲から見た彼の印象に少なくともプラスの作用を与えてはいないことを確信できる。彼の手中に収まってしまった誇り高きブランドショップの服達の気持ちを想像すると何ともやりきれない。
住宅街を切り裂いてるアスファルトの下り坂を足早に降りる。五人四脚をしているかのように横一列になってじれったく歩く前方の男子学生集団をタイミングを見計らって追い抜く。頬を伝う風はすでに冬の感触を運んでいた。先程から足下に向かいがちになっている目線を、翌日の楽しい予定のことを思い出しながら無理やり前方に向ける。気晴らしに駅の中にある本屋にでも寄って帰ろうと思った。