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水杯

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 雲が厚くなっているのか、雨の打ち付ける窓は見る間に暗くなって外の景色よりも先に室内の景色が映るようになった。がらんとした図書館の隅に委員の居るカウンターがあって、窓から閲覧席を挟んで向こうの本棚まで京子の他は誰もない。読み散らかした本を片付けて、手を付けなかった全集だけ借りると傘を持って外へ出た。入り口の水たまりは行きに通った時よりも大きくなって今も流れ込んでくる水を吸って水面を広げつつある。庇は水の溜まる上まで伸びていたから水の静かな部分をねらって水面近くで人魚を呼んでみると、すっと水の底から影が起こるのが確かに見えたような気がした。
 人魚が居る。
 当番をしていた委員が覗きに来ないか軽く注意を払うと、京子は段になった図書館の入り口に濡れているところを避けて座った。
「月曜に返事をするって」
 立っていた時に比べてぐんと水面が近くなる。半日近くで過ごして少し気安くなったのか、人魚は丸い目をくるりと京子に向けた。
「昼休みにそんな話を聞いた。応とも否とも聞かないけど、嫌いではないと言っていたから大方応だよ」
 どうするんだと聞いて、困ったように人魚が小首を傾げる。何も判っていないらしい。京子は盛大に溜息をつきながら、それまでに何とかしなきゃならないってことだよ――と人魚に言った。
「月曜日で間に合わない訳じゃないけど、土日の内に言ってしまうが良い。喋れないなら水たまりから出て鴻上をひっつかむなり何なり、すればいいんじゃないか。鴻上は人魚が好きだと言ったそうだよ。それって」
 お前のことではないかと人魚に言った。また小首を傾げるのが見える。
 もしかして鴻上を危険にさらしているのかもしれないと思いながらも京子は喋り続けていた。人魚に魅入られたら最後水の底まで引きずり込まれると、今しがた本で読んだばかりだったが、目の前の人魚は傘の水滴にも怯える始末で童話の人魚のように人じみた振る舞いをするのでもなく、ただ魚のような丸い目をして人の話を聞くばかりだ。そうして害のない様なふりをしながら人を水の中に引き込むのだろうか。
 土日は私も用があるから、と束の間水面を覗いて考え込んでいた京子は言った。
「山の方に行くんだ」
 不思議なくらい雨音は聞こえず、どこかで耳鳴りがしているのではないかと思える程に小さく退いていた。流れ込む水で水たまりはどんどん面積を広げている。せめて髪ぐらいとかせ、と人魚の髪に指を入れて手櫛ですくと髪の先から飛沫が散った。光もないのに光っているのが、昼前に見た天気雨に似ている。
 水の撥ねる音が聞こえて人魚が消えた。目の前の水面がゆらゆらしている。人魚に伸ばしたはずの手の指は半ばまで水に浸かって、引き上げると水の粒がしたたる。手を振って飛沫を飛ばすと、口の端を堅く引き結んで水の中を歩き出した。人魚は間違いなく鴻上のことが好きだ。どれほど好きなのかは判らなかったが、ゆかりの話と聞き比べるとあまり良いもののようには思えない。ただ今はどちらの味方とも言えなかった。一歩踏み出すごとに波紋が広がる。歩くたびに水面が乱れて、泥混じりの水が流されてゆく。

 明けて三日は綺麗に晴れた。
 月曜になってもまだ晴天は続いている。水筒を入れてやや重くなった鞄を肩から掛けて教室の戸を潜ると、鴻上を探した。無事だったらしい。教室の前の方で机を囲んで話をしていた。しばらく眺めていると鴻上も気がついたのか何だよー、と遠くから声をかけてきた。
「水難の相が出てたから死んだんじゃないかと思って」
「足ならあるぞ」
 占いでもするのかと呆れたように鴻上が言った。
「意外だ」
「当たらぬも八卦だから普段はしないね。……ちょっと前に溺れかけたそうじゃないか」
 ゆかりから聞いた、と言うと鴻上はあたふたしかけて、上原と仲いいのかと京子に聞いた。答えを聞いてしばらく黙る。そうして、他のことは何も言ってなかったかと鴻上が聞いた。どう答えたらいいのか判らなかったのでとりあえず何も、とだけ答えて京子は辺りを見回す。人魚はいない。鴻上も一体どこまで京子に知られたのか計りかねているのか気まずそうに目を反らすと元の輪に戻ろうとして背を向けた。
「放課後だって」
 慌てて呼び止めると鴻上が振り返った。
「放課後?」
「ゆかりが探してた」
 何か約束してたっけと鴻上が言って首を傾げていたが、まあいいやと首を振った。席に着く。水たまりがないせいか、授業が始まる頃になっても人魚は姿を見せない。鴻上の背中を見るのにも厭きて、授業中、窓の景色を見ても雲の欠片も見あたらなかった。人魚は雨でないと水たまりから出られないのだろうか。
 放課後、廊下でゆかりとすれ違った。
「今から行ってくる」
「どこに」
 図書館で待っててとどこかずれた答えが背中から返ってきた。荷物はすっかり持っていたが、鴻上が教室にいるのか気になったので戻ると既に姿はない。隣の教室だろうかと覗きに行ったが、これまた留守で人気がなかった。ゆかりの姿は既に見失っている。図書館に向かいがてら階段下の下足箱を覗くと、両者とも既に外に出たのか上履きが中に入っていて、一人だけ取り残されたような気分になって溜めていた息を吐いた。人魚は居ない。京子もそこで靴を履き替えて仕舞うと、図書館に言伝を置いて外に出た。憎らしいほど晴れている。ここ三日で干上がってしまったのか、水たまりの影はどこにもなかった。
 人魚を捜しに門を出て歩く。海の近くなら潮の満ち引きで岩場に取り残された水たまりが一つ二つありそうだから、海の方へ歩くことにした。学校から駅までの道からは外れているので京子には不案内だったが、貝の砕けた物が混じる海辺に下りると宛てもなくぶらぶら歩いた。砂は砂利じみて素足で歩くには痛そうだった。けれども砂の一粒や貝の色がやけに赤いのが珍しいから、思わず手を伸ばして一掬取った。指の間から砂が洩れて手の中にあるのは石ばかりになる。洗い流そうと手を海に浸すとますます色は鮮やかになる。
 じっと眺めていると波の間に人影が見えるような気がした。波は音も立てずに砂浜に上っては下りを繰り返していたから絶えず汀の線は蠢いていたが、代わりに陸から少し離れた水面は滑らかなままただ上下するだけである。人魚と呼ぶと応と答えた。頷きながら顔を出す。
「土産持ってきたよ」
 努めて平静に呼びかけながら京子は続けた。
 行かなくていいの聞きながら、重い鞄を浜に下ろす。その上に場所を選びながら腰掛けて人魚を見ると、焦点の合わない丸い目でこちらの方を見ながら半身だけ海の上に現れていた。様相は前と変わらない。その様だと言わなかったみたいだねと京子は言って、靴が濡れるのにも構わず海の中に足を放りだした。
「まだ間に合わない訳じゃない」
 半分水に浸かった踵の辺りで、波に砂が削られてゆく。
「探せばどこかに居るんだろ。ゆかり――鴻上が海に落ちたのを助けた奴が、大体居場所が判るって言ってたから、考えさえすれば判るはずなんだ」
「……。」
 見るだけでいいの、と吐き出した息がどこかに落ちた。足下を波がすり抜けてゆく。
作品名:水杯 作家名:坂鴨禾火