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水杯

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 がくんと頷くように鴻上の頭が落ちた。水滴がまた傘を滑り落ちる。鴻上が眠ったようであったが人魚は眠らないのか眠れないのか、丸い目を一杯に広げて鴻上が船を漕ぐ数を数えている。濡れた髪の毛が幾つかの束に別れて渦巻くのが冠のように絡まっていた。髪から落ちきらない水滴が光る。
「好きなの」
 ぽつりと呟くと人魚の顔が強ばって、京子を見上げるのをじっと眺めた。声は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声だ。授業中の私語は普段話している言葉とは全く違う。声というより息を吐くのに近い。机越しに固まっているのが見えたから、もう一度聞こうと京子が息を吐き出そうとするのを見て人魚は慌てて首を縦に動かした。溜められて澱んだ息を吐きながら、あの子好きな子がいるよと京子は人魚に向かって一言言った。人魚は判ったのか判らないのかまたたっぷりと間を取った後、また鴻上の方を見る。すぐ近くにある水たまりから離れないところを見ると、京子に害意はないと受け取ったらしく、手に顎を乗せて、そうして鴻上を後ろからずっと見ていた。ゆかりはあの後鴻上に会ったのだろうか。白い歯が唇の間から見えていたが、その奥に舌はあるのかどうか眺めただけでは判らなかった。人魚を見るのをやめて前を向く。判らないことが多すぎた。ゆかりは鴻上に何と言うつもりだろうか。鴻上は寝ている。海の中で鴻上を掴んだ白い手が人魚のものであるなら、鴻上が好きだったのはゆかりではなくてこの人魚であるのかもしれなかったが口には出さずにいることにした。
 結局昼休みになるまで、人魚は鴻上の後ろ姿を眺め続けていた。休み時間は人の出歩くのを恐れてどこかに隠れているらしかったが、授業が始まってお喋りが止むと足下の水たまりからまた顔を出す。鴻上が寝ていたのは一時間だけで、後の授業は起きていた。弁当を片付けて、何気なく下を覗くと人魚はまだいたので邪魔をしないように教室を出ると、ゆかりが廊下に立って教室の中を見ていた。
「鴻上いる?」
 呼ぼうかと聞くと首を振る。ちらりと教室の中を見て教室の前の方で立ち話をしてると後ろ手で扉を閉めながら言うと、そう、とだけゆかりは答えた。人魚の姿までは見えなかったが、今もぼうっとした表情で鴻上のことを見ているはずだ。廊下にも水たまりが出来ていたが、ぐるりと見回して人魚の姿がないことを確かめると傘立てに指していた自分の傘を取った。
「会っていけばいいのに」
「やだよ。もし違ってたら自意識過剰じゃん」
 教室の中に人魚がいるとは口が裂けても言えない。
 京子が出した仮説は人魚が居ないことによって確実性を増していたから、人魚が見える今となっては鴻上が好きなのは本物の人魚だということも否定出来ない。
 会ったら聞けるんだけど、とゆかりが言った。
「逆に鴻上に告白するくらい勇気がいるね」
 鴻上は他に好きな人とか居ないのかな、と教室の扉を見ながらゆかりが聞いた。告白まがいの人魚のくだりは昨日の朝聞いたらしい。それまではぽつぽつ自分が見たものや、種々の他愛のない話をしていたらしい。それでもやっぱり人魚ばかりだったと不服そうに言う。
 あんまり待たせるのはよくないな、と呟いて悩んでいたようだったが、不意に月曜日、とゆかりは教室の扉を見たまま高らかに言った。
「告白されてから四日経つけど、土日挟むから仕方ない。今日は金曜でしょ。土曜は学校半日しかないし、月曜放課後。それで決定」
 鴻上が落ちてから丁度一週間と指折り数えて、少し長いかな――とゆかりは言った。
「終わったら反省会するから付き合って」
「いいけど」
 待ちぼうけを覚悟しながら一つ頷いた。白い手をして絡んだ赤髪が冠のような人魚もまたその扉の向こう側にいる。今の話を人魚が聞いたらどう思うのだろうと京子は思った。泣くだろうか。笑うだろうか。鴻上の予定は判るのかと聞くと、知らないけど何となく判る、と妙なところでゆかりは胸を張った。
 時計を見ると既に昼休みの大半は終わっている。
 席に戻ると机の下の水たまりが消えていた。教室の至る所で傘が作っていた水たまりも綺麗さっぱり片付けられて、拭いた後に踏んだ靴跡が扉の前に捺されてあるだけだ。誰かが拭いたらしかった。窓の外を見ると天気雨が降る。
 午後の授業はつつがなく過ぎた。雨も昼を過ぎて上がったまま、雲だけ足早に行き交っている。校舎を出て図書室へ行く道は未だに湿気っていたが生乾き程度にはなって、日差しの照り返しと共に湿度の高い風がじりじり足下から立ち上っていた。夏至がついこの間過ぎたばかりである。図書館の前は相変わらず水没していたので、人魚がいないかと京子は水の中を眺めていたが、何も浮き上がる気配が無かった。水の底は飛ばされてきた泥や土でもやもやしていて、足を踏み入れると僅かに滑る。
 図書館に来たのは人魚について調べるのが目的だった。とりあえず書名を思いついたアンデルセンを探しに小説の棚に入ったが、名前が無いので顔見知りだったカウンター当番の同級生に聞いた。
 もしあるならば全集棚だけどと壁際の棚を指す。
「子供向けじゃないから絵はなかったと思う」
「それでいいよ」
 アンデルセンは他の幾人かとまとめて一冊になっていたので引き抜いた上製本は思いの外重い。幼い頃家で読んだ絵本に比べると、話の趣がやや異なっている気がして、とりあえず小脇にしまい込むと別の棚へ向かった。何冊かめぼしい本を抜くと流石に腕が重くなる。閲覧席に向かった。日本の伝説では南海に生きた人魚の話はあるようだったが、後は人魚となると膾になって食われているような話しか見あたらない。同じ本をぱらぱら捲ると近場では山の井の由来が載っていたのが目を引いた。一、二時間ほど山へ行ったところにある毒泉が、いつの間にか薬泉になっていたそうである。奇瑞として観音堂が立てられて、今でも汲みに行く人があったことなどを思い出しているとぱちんと窓に物を当てたような音が聞こえた。梅雨の終わり頃に降る雨は急に激しく降ることも珍しくない。持ってきた伝説集に載っていた近所の話はそれだけで、遠くまで行かなければ人魚は捉えられないらしい。あの鈍くさい人魚ならいくらでも釣れそうな気がしたが、見るのと捕るのとではまた勝手が違うのかなと京子は思った。
 そういえば一度捕ることに失敗している。
 ――鴻上の後を追っていたのかな。
 本を置いたまま、人魚が居た辺りに歩を進めるとカーテンを摘んで外を見た。鴻上が歩く後に水たまりは出来るから、その影を慕って水たまりに人魚は顔を出すのかもしれない。ずっと見ているだけじゃないかと京子は思った。見ている限り人魚は何も言葉を発していない。舌があるなら喋ればいい。無ければ水の中から出て歩いて前へ行けばいい。人魚姫とはそういう話ではなかったかと机の上の本を振り返って思った。記憶が正しければ確か人魚の武器である舌を売って、足を得たのである。
作品名:水杯 作家名:坂鴨禾火