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水杯

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 京子が足を入れたせいで、静かだった水面が渦巻いて飛沫が撥ねたが人魚の表情は変わらなかった。少しだけ開いた唇が僅かに動く。京子は溜息をついて足下の鞄から水筒と紙包みを出した。中に包んでいたのは手に載るほどの素焼きの杯で、小菊をかたどるのか縁に控えめな模様がある。ただの水だけどと言いながら水筒の水を注いだ。
「飲むか」
 不思議そうに人魚が杯を見上げる。手は伸ばさないので警戒しているのかと思いながら京子は言った。
「真清水だから喉に甘いんじゃないか。普段、泥混じりの水や濁った水ばかり飲んでいるだろう」
 前は薬泉と言ったらしいなと言う内に喉が渇いたので杯に口を付けると二口三口舐めて唇を湿らす。確かに美味くてそのまま飲み干してしまおうとすると、白い指が杯の縁にかかった。慌てて口を離してやると、見ている前で杯が空になったので、何だ毒味が要ったのかと言いながら京子は舐めた分の水を注ぎ足した。確かに水は毒だよと、杯を取られたので自分の分を外蓋に取りながら京子は言った。人魚は縁を噛むように杯を傾けて飲んでいる。
「陸の生き物は飲み過ぎると死ぬ。水毒というらしい。人魚はどうだかは知らないが、やっぱり毒じゃないのか。一体どれほどの量を飲んだら死ぬのか皆目見当もつかないが」
 おまけに汲んだのは曰く付きの水である。
 今こそ名水として知られているが、昔は毒泉だったという。それが薬に変じていつの間にか名水になったらしいなと人魚に言うと、水を飲もうとしている手が止まった。
「毒は見方を変えれば薬だろう」
 京子が笑う。
「虫除けの薬も虫には毒で人には薬だ。お前にはどちらが効くのか知らん。人魚で、害をなすなら毒じゃあないか」
 人魚は何も言わない。口を噤んだまま睨むので恨むのかと京子は笑った。京子もその毒とも知れない水を飲んでいる。目の縁を赤くして睨んだ人魚に向かって、ゆかりも鴻上もどちらも知己だから、そう簡単には遣れないんだと京子は笑って杯をあおった。この水を飲んで人が死んだという話は聞いたことがなかったが、元は毒泉だったことを知って飲むのと、知らないで飲むのとではまるで味が違うように思えた。大抵の毒は苦いらしいが、毒泉と知って飲む方がますます喉には甘い気がする。
見ているだけで本当に済むのか京子は言った。
「お前、人魚だろう」
 黙っている内は可愛いが、口を開ければ牙があるのかもしれない。甲高い声を上ながら人を海に引きずり込むのかもしれない。そもそも、いるのかどうかすら怪しかった。
 鴻上のことは私も好きだよと京子は言って飲み指しの水面を覗いた。
「良いなとは思っている」
 ゆかりに否と言わせなかったのも判るしいい奴だもの、と言った後で、でもそれだけだなと呟いた。人魚が出てきたのは、ゆかりが図書室で鴻上の話をした後である。惚れた腫れたと言うよりむしろかぶれたが近いんじゃないかと言って京子は外蓋の中を覗いた。退屈そうに見返す影は人魚ではなく京子のものだ。水面が揺れた。
「お前、言わなかっただろうが」
 他人が良いなと言ったから良いなと思った、その程度のことである。
 海と違って手の中の波は寄るも反すも自在だ。かんと音を立てて蓋の端が振れた。見ると人魚が水中から空になった杯を突き出していた。毒だと言ったら飲むのをやめたくせに、と笑いながらなみなみ注いで京子も自分の分にも足す。
 毒を食わば皿までをそのままに杯の端を噛みながら人魚は水を舐めていた。生温い風が吹いていた。日の高さは真昼に比べてやや落ちてはいるものの、照り返しを受けてひどく蒸し暑い。潮は引いているのか満ちているのか判らなかったが休み無く繰り出される小菊の杯に水を注いで飲んでまた注いで、時折水筒の蓋にも水を入れながら飲んでいる間中足下から波が引くことはなかった。手が伸びる。また注ぐ。飲みながら鞄が濡れるのは面倒だなとぼんやり思った。中にビニールを貼って水の染みないようにはなっていたが、図書館で借りていた本が数冊入っている。人魚がごねたらいくらでも、一切経でも何でも厄除けに聞かせてやろうと詰め込んだから座り心地は固かった。鰯の頭は流石にやめた。水は飲めば飲むだけ入る気がする。
 人魚は伏し目がちに飲んで、またすぐに杯を差し出した。陸の生き物が水を飲むのは干からびるためだが海の生き物である人魚にも、喉が渇くことはあるのだろうか。上を向いて水を飲むときに絡み付く髪に混じって喉の白さが僅かに見えたが、別に水を飲むためだけの器官ではない。空気を杯に入れて飲むような気持ちなのではないかと京子は思う。空気を吸って一体どうするつもりなのか、海の中で泣いたとしても涙はすぐに溶けてゆくから空気の粒で代用するのだろうかと思った。それとも涙は涙のままで、外から見ても、中から見ても泣いているようには見えないのかもしれない。人魚などはじめからいない生き物だから泣こうがわめこうが変わりなかった。
 飲んで、注いで、自分の分も注ごうと水筒を逆さにするともう中が空になっていたのか一滴だけ中に落ちたきり後に続く粒は見えなくなった。振っても落ちない。あんなに重かったのにすっかり空なのかと内蓋を開けて中を覗いていると、水を催促するのか杯を叩く音が足下で聞こえた。
 人魚はいない。
 代わりに小菊の杯が割れていた。立って欠片をにじっていると、遠くから声が聞こえて、見るとゆかりが手を振っていた。自転車を押している。
「用は済んだの」
 もう五時だよとゆかりが言った。いつの間にか日が長くなって気付かずにいたらしい。待ちぼうけを覚悟していたから早いとも遅いとも判らないから答えずにいると、鴻上が舞い上がって大変だった、とゆかりが言った。
「駅まで一緒に帰ろうって言われたけど、自転車だって言ったらしょげてた。ていうか京子、大分探したんだよ。海の方に行ってるって委員の子から聞いたけど」
 反省会は別の所でやるつもりなのか、ここまで押してきた自転車の向きを変えて、帰ろうとゆかりが言った。ちょっと待ってと呼び止めて、持っていた水筒を鞄にしまう。
 何を見てたの、とゆかりが聞いた。陶器が落ちていたから見てたと京子が割れた小菊を指した。
 飾りの線に沿って幾つかに割れて波に花が毀れる様に似ていなくもない。拾って継ぐの聞かれて素焼きだからなあと京子は首を振った。破片は何度も波に洗われて砂が溜まっていた。流れ込む砂も舞い上がる砂も皆々赤くて誰かが指を切ったようである。毒が効いたのだろうか。花の周りは泡立って、音と言えないほどの声ではじけた。黙ってその声を聞く。
 段々潮が満ちてくるのか杯が落ちた辺りの海も波間に乾くことが無くなってしまって、ようやく京子は腰を上げた。
 人魚ならばもう出ない。
 ゆかりに並んで歩き出しながら、鴻上ももう人魚なんて言うこともないだろうと京子が言うと、そうだねえとゆかりが答えた。足下の影が長くなる。
 やがて日が落ちた。
 人魚のいた波の間はいつまでも赤いままだった。
作品名:水杯 作家名:坂鴨禾火