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水杯

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 今よりも降り始めの方が勢いが強かったのか、遮光カーテンの隙間から見える窓硝子に大粒の雨が当たった後があったものの、今は僅かに突き出た庇で事が足りてしまうのか雨の姿も見えずにどこかで細かに降っているらしい。ゆかりは気付いてないからのっぴきならなくなってるんじゃないか、と京子は言った。ずっと図書館の中にいると外の景色に疎くなる。鴻上ならさっきまで図書館の中にいた。雨に気がつかなかったとはいえ鴻上が何度か本棚の間を出たり入ったりするのは見ていたし、ゆかりが来るまで図書館には他に人が来なかったからおそらく間違いない。辺りの床の水たまりを消す。
「一応鴻上に事実関係確認してみようか?」
「いい。見付けたら直に聞くから」
 雨粒は絶えず地面に叩き付けられているのに、あまりに数が多いせいか却って音を食うように静かだ。ゆかりが床に足を下ろすと傘借りて帰るよ、と言って靴の先で床を叩いた。足下に気をつけて、と後ろ姿を見送りながら声をかけると背を向けたままひらひら手を振って、準備室の傘立てから傘を引き抜いた。
 出入り口の扉が閉まる衝撃で水跡が静かに揺れる。
 鴻上が居て、少し後に同じ場所にゆかりが居たからただ目の前の事実だと言われてもあながち嘘とも言えなかったが、現実感という面では相当希薄だ。色恋沙汰には興味がなかったから、どこか遠い出来事のように京子には思えた。バケツの水を流しに水を捨てる。人のいない図書館で掃除をしている方が余程性に合っている。
 モップを持って鴻上の足跡を辿ると、見るものは決めてなかったのか節操がない。外国の小説の棚から百科事典のある棚へ、閲覧席を渡って向かったかと思うと今度は日本の小説の棚へ、ついで海側の窓の辺りへ、のんびり散歩するように向かっている。全集がぎちぎちに詰まっている通路には入っていかずに鴻上はただ窓の外ばかり見ていたのか、カーテンの開いた窓の前にひときわ大きな水たまりが出来ていて、他にどこにも繋がっていなかった。モップを置く。今度は本棚の順を直す。しばらくは誰も来ていなかったのか、頻繁に出入りがあるはずの小説の棚はあまり入れ替わってはいなくて、課題用に並べてあった全集が僅かにずれているばかりである。民話集の順番の狂いを直して百科辞典の棚へ行くと、何故だか海の百科が児童文学の百科のところに押し込まれていた。
 ――そういえば、人魚とか言っていたな。
 ぬいぐるみの絵の中から鯨の表紙を引っ張り出す。動植物の分類から人魚が消えたのは大分昔の話だ。そんな話を生物の時間に聞いた。昔は人魚も海の生き物に数えられていたらしい。全集棚の横に立てかけたモップの下が未だ水たまりになっているのを見て、あれも拭かなきゃならんと思いながら、鯨の表紙を棚に押し込んでいると水の跳ねる音がどこかで響いた。手を止めて入り口を見る。人気はない。ならば雨漏りかとしばらく天井をにらみつけながら耳を澄ませていると、もう一度音が聞こえる。水の中に水が落ちる音である。書棚の中の水たまりはあらかた拭いてしまったはずだから、残っているのは全集棚のモップの下で、黒く光っている水面だなと京子は思った。窓が開いているのだろうか。
 しばらく見ていると水面が泡立った。波が広がる。最初に現れたのは鼻先で、ついで頬と首筋が出る。髪は長いのか頭の半分を覆い隠して豊かに流れ落ちていたが、絡まったり玉になったりで、時折浜辺に上がる赤い海草に似ていなくもない。頬が赤かった。あれは何なののだろう。水たまりから人の顔が出ている。窓の桟に捕まろうとしているのか細い手が出て宙に伸びた。図書館の中にしては珍しく強い潮の香がする。
 人魚だ、と京子は思った。
 腰から下は見えないが鴻上が見たものはあれだろう。恐ろしく白い肌をしている。人魚は歌っても髪を梳っても居なくて、ただカーテンの端を揺らしているだけだった。不思議と恐ろしい気はしない。掌の輪郭線が細くて消えそうだった。背後から回り込む。
 叩いたら泣くだろうか。
 掴んだモップの先を高く振り上げて、束の間逡巡する。丁字になった先を構え直すと、影が不意にこちらを向いた。髪も白い手もみんな消えて、モップから垂れた水滴が水たまりに落ちる。柄を構えたまま覗いた。隠れる余地はまるでない。脇の通路にも姿はなくて、後には何もない水面が残った。
 躊躇がいけない。
 掃除道具を片付けると丁度閉館時刻になっていた。帰り支度をして玄関の庇の下で自分の傘を開くと足下で水たまりがゆらゆらしている。段の上からも下からも濡れずに飛び越そうとしても必ず靴の先が水に着くので仕方がなくざばざば踏み込んで上履きを濡らすと、やがて雨の中に出た。靴を履き替えて帰路に着く。
 遠くに見える海は波頭が白く泡立っていて、雨に触れたところから溶けてゆくようである。海と傘の骨を見比べながら京子は図書館に人魚の湧いた理由を考えた。種も仕掛けもなさそうだ。歩きながらずっとそのことばかり考え続けていたので、信号を待つ間、傘の下の水面で何か泳いだような気配がするので急いで覗くと暗い中に自分の顔が鏡のように水面に映っただけだった。
 青になる。

 翌日も傘を持って学校に行った。
 教室の最後列にある京子の席の傍に水たまりがあったので、避けるように席をずらすと教室の前の方の席に鴻上が見えた。シャツの背中が濡れそぼっていないから今朝は傘の用意があるらしい。案の定机に傘が立てかけられている。
 生徒の殆どは傘立てを使わずめいめい持ったまま教室に入る。取り違いや持ち去りを防ぐためだ。あるのはさして高価ではないビニール傘だったが、誰も雨に濡れて帰るのは嫌だ。見る前でするすると水滴が雨傘を下った。音のない雨が降るようである。転げた珠はようやく水面に落ちた。水面が揺れる。
 それでも水たまりを眺めていると白い手が生えた。思わず板書の手が止まる。腕の中程まで出て、掌をひらひら伸ばしかけたところに水滴が落ちて慌てて引っ込む。多分昨日の人魚だ。今度は少し手前の水たまりの中に覗いて、やはり傘からの直撃を受けると消えた。
 白い手に誰も気付かない内に授業が始まった。人魚は、水滴に追い立てられるように少しずつ教室の後方に逃げる内に京子の足下まで来る。傘は傘立てに置いてきていたから、京子の足下には水面を揺らす物はない。じっと机の上から見られているのにも気付いていないのか、人魚は水の縁から濡れていない床に肘をついた。そのまま前を向いて授業を受けている。
 ――違うな。
 ゆらゆら髪を垂らして人魚が見ているのは、黒板ではなく鴻上だ。昨日ゆかりと話したこともあったので、黒板ではなく周囲の生徒の様子も眺めていると、はじめは鴻上も同じように教科書を捲ったりしていたが、やがてうつらうつらしはじめたのか、ページを捲るのがやや遅れる。シャツの背中が船を漕ぎはじめて、それを数えているのか人魚の顎が上下に揺れた。眠りながら必死にノートを取ろうとしていたところを見ると、授業をなおざりにしている訳でもなさそうだったが昨晩寝なかったのだろうか。
作品名:水杯 作家名:坂鴨禾火