水杯
図書館の外では雨が降っている。
委員で持ち回りのカウンターの当番の最中、人が来ないことを良いことに本を読みふけっていたのが原因で雨に気付くのが遅れた。随分前から雨は降っていたのか、上履きと覚しい足跡がビニールの床に続いている。
京子が慌てて図書館の扉を開けると案の定巨大な水たまりが広がっていた。入るまでに段があるおかげで図書館の中へ水が入ることはなかったが、通行に不便なのには変わらない。
先程まで閲覧席の中でうろうろしていた男子生徒の姿を思い浮かべて、クラスが同じで顔見知りだからせめて一言くらい雨の降っていることを言ってくれたらよかったのに、と思いながら入り口に靴を拭くための雑巾やタオルを出しに行った。本日の利用者はその一名だけだ。人が来ないのが常態化しているから声かけを期待する方が違っているのかもしれない。
入り口横に傘立てを出して、雑巾かけを目につくところに引き出して雨仕様にしていると、準備室の傘借りに来た、と知り合いのゆかりが雨に濡れて入ってきた。
「降るって昨日から言ってたじゃないか」
予報聞かなかったのと京子が聞くと、寝坊しかけたから聞いてなかったんだとゆかりがぼやきながらハンカチであちこち拭く。本来傘は貸した本を濡らさないようにするために準備室に置いているが、ゆかりが本は全く借りていくことはついぞ見ない。
「自転車で来たんだけど、今日は放置かなあ」
雨の日は図書館で傘も借りられますって言った方が人が来るんじゃないのと軽口を叩くとゆかりは二、三度玄関マットを踏む。
「今日は珍しく人が来てたみたいだし。玄関に足跡ついてたよ」
「それ、多分うちのクラスの奴だ」
傘は本を借りた人用だよと歩いていくゆかりの背中に呼びかけたが、いいのいいのと気にした様子もない。掃除用具入れのモップで足跡を消しながら後を追うと、ゆかりはいつものように閲覧室の真ん中当たりに椅子を引き出してカウンターの方を向いて座っていた。
「ゆかりも何か借りてけ」
「傘だけでいいよ」
ただでさえ手狭な閲覧室にぎゅうぎゅうに机を詰め込んで椅子を引くのにも苦労する程だったが、そこだは妙に幅が空いていて腰掛けやすい。足跡もそこを通って本棚の方へ向かった後、何度か往復して再び玄関に繋がっていた。
そういえば鴻上って京子のクラスだっけ、とゆかりが聞く。
「幽霊見えるとか、そんな話聞いたことある?」
「初耳だな」
人魚を見たんだって、とゆかりが言った。
授業中、前の方にある席でノートを取っている後ろ姿を思い出して首を傾げた。同じクラスであるから、延滞の督促やらで話をすることもあるがとりわけ親しい訳でもない。気心の知れた男子連中でつるんでいるところを見かけるくらいである。たまに本を借りに来て帰った。人魚や幽霊が見えていたとしてもさして騒ぎ立てそうでもなかったし、そもそもそういう話は聞いたことがない。
どうしたの、と京子は聞いた。鴻上について、共通の知己ではなかったはずである。
「拾った」
やや間があってゆかりが言った。
しばらく前に鴻上が海で溺れてるのを拾って、その時に聞いたのだという。拾うはあんまりだと呆れて言うと、じゃあつり上げたかなとゆかりが言った。放課後、帰宅途中に鴻上が溺れているところを発見したらしい。岸から紐のついたペットボトルを投げて、掴んだところを数人がかりで引き寄せたらしい。
「手を掴まれたとか言ってたけど、その時見たって」
鴻上が見た人魚ってどんななんだい、と京子はモップの先をくるりと返す。人魚っていうか、海の中の人だね、とゆかりがモップの進行方向にある足をどかして答えた。
「丁度落ちたところを見ていたのか、細くて白い腕が伸びて鴻上を掴んだって。ぐいぐい引っ張って頼もしいとか言ってたけど、女の手で、尻尾について何も言ってなかったな」
気味が悪いじゃないか、とゆかりが言った。
「私は割合すぐに駆けつけた方だけど、他に女の人なんていなかったし。海の中の手だって。そもそも手だけで女かどうか判るのかな。ずっとそのことしか言わない」
「人魚なんてのは大概碌でもないからなあ」
ちょっとした怪談のようでふうんと頷きかけて足が小規模な水たまりに突っ込みかけるのを慌てて避けた。先客は近くを何度も通ったのか至る所に水たまりが出来ていた。カウンターの中で本を読むのに必死だったから、どこに人が座っていたかさっぱり思い出せなかったが、水跡の具合を見るとしばらくこの辺りにいたらしい。
「普通死ぬぞ。人魚の話で人が死ななかったのはアンデルセンくらいじゃないか。前に何かで調べたけれど、歌や髪やらで魅惑してぼうっとしたところを、溺れさせたり、引きずり込んだりする方が余程見た。嵐の先触れだとも聞くけど」
今だって半分夢見心地だよ、とゆかりは短い髪をハンカチで拭くこともせず頬杖をついた。
「さっきも会った。私のことを人魚みたいだとか言うのはどうかと思う」
「ふうん」
「人魚人魚って、人魚が好きだとも言っていたけど」
随分迂遠な告白だね、と床を拭く手をしばらく休めて京子は言った。玄関の用具入れにバケツを取りに行く。はあ、と間の抜けた問い返しが遠くで聞こえた。行って戻ってきてもゆかりは首を傾げたままだったので、三段論法だよとゆかりの顔は碌に見ずに、持ってきたばかりのバケツにモップの端を絞りながら言った。
「あんまり正確じゃない気もするけど、そこは目をつぶれ」
「ええと、三段論法ってソクラテスだから」
定言的三段論法ね、と訂正する。
ぐちゃぐちゃ言うからわかんなくなったじゃん、とゆかりが大声で京子の話を遮って、しばらくしてから変だ、と言った。
「ずれてる」
「ずれてないよ」
私人魚じゃないじゃん、とふてくされたように言った。
「比喩だよ」
ようやく京子が顔を上げると、ゆかりは短い髪に指を突っ込んでぐしゃぐしゃもてあそんでいる。やっぱり変だとゆかりは言った。
「髪の毛、海草みたいに赤いって言ってたし」
「長さについては?」
「何も」
引き上げた人の中で他に女の人はいたかと聞くと首を振るゆかりを見て、じゃあそれだと白い腕を指した。眉根が寄る。ゆかりと人魚とはイコールで繋がる定数項なんだよと言うと嫌そうな顔をするのは、ゆかりは数学が苦手だからだ。
「人魚なんていないじゃないか」
ゆかりはまだ渋い顔をしている。
いないからゆかりが人魚でなくても三段論法は成立するんだと京子は言った。鴻上にしても悪気はなかったのだろう。足下の水たまりを指摘するとようやく気がついたのかゆかりは足を浮かせる。隙間にモップをゆっくり滑り込ませた。大分吸水力は落ちていたがまだ水を吸う糸の束を水は異物と受け取ったのかぼよんと小さく波が立って汀の一方の端を広げながら往復する。
「嫌なの」
「何回か話はしたけど」
そこまで嫌いではないなゆかりは苦い顔をしたまま手を振った。それまではクラスも違うから見覚えがあってもあまり話したことまではなかったらしい。割と普通の奴だよと京子は言った。水たまりを拭く。
「雨ひどかったの」
相変わらず雨は降っていた。
委員で持ち回りのカウンターの当番の最中、人が来ないことを良いことに本を読みふけっていたのが原因で雨に気付くのが遅れた。随分前から雨は降っていたのか、上履きと覚しい足跡がビニールの床に続いている。
京子が慌てて図書館の扉を開けると案の定巨大な水たまりが広がっていた。入るまでに段があるおかげで図書館の中へ水が入ることはなかったが、通行に不便なのには変わらない。
先程まで閲覧席の中でうろうろしていた男子生徒の姿を思い浮かべて、クラスが同じで顔見知りだからせめて一言くらい雨の降っていることを言ってくれたらよかったのに、と思いながら入り口に靴を拭くための雑巾やタオルを出しに行った。本日の利用者はその一名だけだ。人が来ないのが常態化しているから声かけを期待する方が違っているのかもしれない。
入り口横に傘立てを出して、雑巾かけを目につくところに引き出して雨仕様にしていると、準備室の傘借りに来た、と知り合いのゆかりが雨に濡れて入ってきた。
「降るって昨日から言ってたじゃないか」
予報聞かなかったのと京子が聞くと、寝坊しかけたから聞いてなかったんだとゆかりがぼやきながらハンカチであちこち拭く。本来傘は貸した本を濡らさないようにするために準備室に置いているが、ゆかりが本は全く借りていくことはついぞ見ない。
「自転車で来たんだけど、今日は放置かなあ」
雨の日は図書館で傘も借りられますって言った方が人が来るんじゃないのと軽口を叩くとゆかりは二、三度玄関マットを踏む。
「今日は珍しく人が来てたみたいだし。玄関に足跡ついてたよ」
「それ、多分うちのクラスの奴だ」
傘は本を借りた人用だよと歩いていくゆかりの背中に呼びかけたが、いいのいいのと気にした様子もない。掃除用具入れのモップで足跡を消しながら後を追うと、ゆかりはいつものように閲覧室の真ん中当たりに椅子を引き出してカウンターの方を向いて座っていた。
「ゆかりも何か借りてけ」
「傘だけでいいよ」
ただでさえ手狭な閲覧室にぎゅうぎゅうに机を詰め込んで椅子を引くのにも苦労する程だったが、そこだは妙に幅が空いていて腰掛けやすい。足跡もそこを通って本棚の方へ向かった後、何度か往復して再び玄関に繋がっていた。
そういえば鴻上って京子のクラスだっけ、とゆかりが聞く。
「幽霊見えるとか、そんな話聞いたことある?」
「初耳だな」
人魚を見たんだって、とゆかりが言った。
授業中、前の方にある席でノートを取っている後ろ姿を思い出して首を傾げた。同じクラスであるから、延滞の督促やらで話をすることもあるがとりわけ親しい訳でもない。気心の知れた男子連中でつるんでいるところを見かけるくらいである。たまに本を借りに来て帰った。人魚や幽霊が見えていたとしてもさして騒ぎ立てそうでもなかったし、そもそもそういう話は聞いたことがない。
どうしたの、と京子は聞いた。鴻上について、共通の知己ではなかったはずである。
「拾った」
やや間があってゆかりが言った。
しばらく前に鴻上が海で溺れてるのを拾って、その時に聞いたのだという。拾うはあんまりだと呆れて言うと、じゃあつり上げたかなとゆかりが言った。放課後、帰宅途中に鴻上が溺れているところを発見したらしい。岸から紐のついたペットボトルを投げて、掴んだところを数人がかりで引き寄せたらしい。
「手を掴まれたとか言ってたけど、その時見たって」
鴻上が見た人魚ってどんななんだい、と京子はモップの先をくるりと返す。人魚っていうか、海の中の人だね、とゆかりがモップの進行方向にある足をどかして答えた。
「丁度落ちたところを見ていたのか、細くて白い腕が伸びて鴻上を掴んだって。ぐいぐい引っ張って頼もしいとか言ってたけど、女の手で、尻尾について何も言ってなかったな」
気味が悪いじゃないか、とゆかりが言った。
「私は割合すぐに駆けつけた方だけど、他に女の人なんていなかったし。海の中の手だって。そもそも手だけで女かどうか判るのかな。ずっとそのことしか言わない」
「人魚なんてのは大概碌でもないからなあ」
ちょっとした怪談のようでふうんと頷きかけて足が小規模な水たまりに突っ込みかけるのを慌てて避けた。先客は近くを何度も通ったのか至る所に水たまりが出来ていた。カウンターの中で本を読むのに必死だったから、どこに人が座っていたかさっぱり思い出せなかったが、水跡の具合を見るとしばらくこの辺りにいたらしい。
「普通死ぬぞ。人魚の話で人が死ななかったのはアンデルセンくらいじゃないか。前に何かで調べたけれど、歌や髪やらで魅惑してぼうっとしたところを、溺れさせたり、引きずり込んだりする方が余程見た。嵐の先触れだとも聞くけど」
今だって半分夢見心地だよ、とゆかりは短い髪をハンカチで拭くこともせず頬杖をついた。
「さっきも会った。私のことを人魚みたいだとか言うのはどうかと思う」
「ふうん」
「人魚人魚って、人魚が好きだとも言っていたけど」
随分迂遠な告白だね、と床を拭く手をしばらく休めて京子は言った。玄関の用具入れにバケツを取りに行く。はあ、と間の抜けた問い返しが遠くで聞こえた。行って戻ってきてもゆかりは首を傾げたままだったので、三段論法だよとゆかりの顔は碌に見ずに、持ってきたばかりのバケツにモップの端を絞りながら言った。
「あんまり正確じゃない気もするけど、そこは目をつぶれ」
「ええと、三段論法ってソクラテスだから」
定言的三段論法ね、と訂正する。
ぐちゃぐちゃ言うからわかんなくなったじゃん、とゆかりが大声で京子の話を遮って、しばらくしてから変だ、と言った。
「ずれてる」
「ずれてないよ」
私人魚じゃないじゃん、とふてくされたように言った。
「比喩だよ」
ようやく京子が顔を上げると、ゆかりは短い髪に指を突っ込んでぐしゃぐしゃもてあそんでいる。やっぱり変だとゆかりは言った。
「髪の毛、海草みたいに赤いって言ってたし」
「長さについては?」
「何も」
引き上げた人の中で他に女の人はいたかと聞くと首を振るゆかりを見て、じゃあそれだと白い腕を指した。眉根が寄る。ゆかりと人魚とはイコールで繋がる定数項なんだよと言うと嫌そうな顔をするのは、ゆかりは数学が苦手だからだ。
「人魚なんていないじゃないか」
ゆかりはまだ渋い顔をしている。
いないからゆかりが人魚でなくても三段論法は成立するんだと京子は言った。鴻上にしても悪気はなかったのだろう。足下の水たまりを指摘するとようやく気がついたのかゆかりは足を浮かせる。隙間にモップをゆっくり滑り込ませた。大分吸水力は落ちていたがまだ水を吸う糸の束を水は異物と受け取ったのかぼよんと小さく波が立って汀の一方の端を広げながら往復する。
「嫌なの」
「何回か話はしたけど」
そこまで嫌いではないなゆかりは苦い顔をしたまま手を振った。それまではクラスも違うから見覚えがあってもあまり話したことまではなかったらしい。割と普通の奴だよと京子は言った。水たまりを拭く。
「雨ひどかったの」
相変わらず雨は降っていた。