小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

罪子、辟易する

INDEX|1ページ/2ページ|

次のページ
 
早朝、玄関先で口付けを交わす向田夫妻の様子を、罪子はこれといった興味を抱くこともなく、頬杖をついたままぼんやりと眺めていた。

 子犬を摸した薄茶色のスリッパの先端に、ククッと体重を乗せて軽く前傾する小柄な幼妻。その唇は、彼女よりも数段身長の高い《向田秀一》に向けて、小さく、それでいて意識的に突き出されている。
 しかしながら背伸び程度ではまだ埋まらない二人の身長差を、《向田秀一》は膝を屈めることで消化し、差し出された唇へ、ついばむように軽く口付けた。
 優しげで、それでいて確かに触れる両者の唇は、象徴的にチッと音を立て、夫婦という関係性を、より色めいたものに演出する。

 「じゃあ、いってくるよ」
 「うん。早く帰ってきてね」

 妻にしばしの別れの言葉を告げて、《向田秀一》は玄関の扉に手をかける。彼においていかれる訳にはいかない罪子もいそいそと立ち上がり、その背中の後をとことことついて行った。
 
 玄関を出て早々にして、罪子が右手に持つ羽ペンはせわしなく動いていた。観察・記録を仕事とする罪子にとって、速記の技術は命ともいえる。手元を見ずとも、ほとんど正しく記述できる自分の速記能力を、罪子は強く信頼していた。
 こんな芸当が身についたのも、彼女の観察対象である《向田秀一》が、息つく暇もなく「善行」を繰り返すからである。《向田秀一》がとる朝の行動は、いつもどおり、確実にポイントを記録していった。

 スクランブル交差点で戸惑う年配の婦人に手助けをする行為、1ポイント。
 転んで膝をすりむいた通学途中の小学生に手当をする行為、1ポイント。
 倒されて散らばったゴミを、もとのゴミ箱に戻す行為、1ポイント。

 出勤するほんの数十分の間に、《向田秀一》は累計3ptのプラスポイントを叩き出した。それに関わる事柄を、罪子は事細かに記録していく。日時、対象、内容、意志、そしてその総合ポイント。
 丸めた膝に抱えた書類の束に、次々と書き込まれていく《向田秀一》の善行の総量は、これまで罪子が担当した幾千人の人間の中でも、最も多い。
《向田秀一》が誕生した三十二年前の十月二十一日から現在に至るまでの、彼の累計善行ポイントは80,000ptを超えている。
 これは、あまりにも異常な高数値であるとして、罪子達の仲間内でも話題になるほどであった。罪子にとっては迷惑なことに、上層部から一度「不正審査」を疑われたこともある。
 「そんなことをして何か特があるわけでもないのに、やるわけがない。そもそも私達は不正をするように出来ていない」という罪子の反論もあって結局疑いは晴れたが、罪子の報告に対する上層部の監査はいまだ厳しいもののままであった。《向田秀一》という存在を、上層部も認めきれないでいるのだ。彼の出す数値は、「聖人」のカテゴリに入らない人間がはじきだして良いものではない。



 《向田秀一》の勤務する『向田商事』の社屋は、彼の自宅から歩いて二十数分のところにあった。
 ペットフードの卸売りを行う、従業員二十余名ほどの小さな会社であり、《向田秀一》は若くしてここの常務取締役に就任している。
 爽やかに社員と朝の挨拶を交わしながら社内に到着したあとも、《向田秀一》の善行は続いた。

 部下の失敗をさりげなくフォローする行為、1ポイント。
 会社の前の道を掃除する行為、1ポイント。

 社で重ねる善行の数に比例するかのように、《向田秀一》の社内での評価も高かった。
 もともと柔和な印象を人に与える人相をしていることから第一印象が良い。そのうえ、行動や発言の内容がその初めの印象とほぼ一致している為、ほとんど人に嫌われるということがない。
 若くして常務となった《向田秀一》に対して、多くの先輩からのやっかみがほとんどなかったのも、業務で優秀な結果を残している事に加えて日頃の印象が良いからだろう。少なくとも、向田秀一はそう考えていたし、罪子もそれには概ね同意していた。
 「常務、社長からお電話です」
 「わかりました。こちらにまわして下さい」
 電話を受けた女性社員に軽く目配せし、《向田秀一》は自分の席に座って赤く点滅している受話器の通話ボタンを軽く押した。
 「もしもし、お電話かわりました。向田です」
 聞き取りやすく明朗快活な声の調子で、《向田秀一》は受話器の向こう側にいる人物と話し始めた。誰に対しても好印象を与える《向田秀一》の声の「つくり」に、罪子はいつも感心する。
 己の感情の端すら微塵も感じさせない混じりっけなしの「台詞」をここまですらすらと言える人間を、罪子は他に知らない。

 電話の相手、《向田秀一》の上司である向田商事の社長は、同時に彼の義理の父親でもあった。愛する妻の父親であり、身寄りのなかった《向田秀一》を自分の会社に雇い入れ、常務にまで取り立てた人間である。
 《向田秀一》は人前では良く、義理の父のことを「恩人」である、と語った。口では「よせやい」と嫌がる素振りを見せる義父も、内心ではその言葉と周りからの尊敬の目によっておおいに気分を良くしていたし、加えて《向田秀一》自身も、周りに自分が「義理堅い人物である」という印象を与えることができた。
 しかし、その言葉とは裏腹に、現実のところ《向田修一》は義父に対し、侮蔑以外の感情を持ち合わせていなかった。あるいは侮蔑にも至らぬほどの、圧倒的な軽視である。路傍の石に向けるまなざしとほぼ同義のものだった。
 現在、彼の口から出て受話器を通り、相手の耳へと届いている言葉は、まさに《向田秀一》の抱く感情とは真逆の、尊敬と好意に彩られていた。
 完全な擬態だった。この世界で唯一それを知る罪子を除いたものたちにとってみれば、向田秀一は「義父と仲の良い、できた婿」であり「社長の右腕である、よき常務」である。彼が思う「真意」など誰も知らない。その「真意」の端は、外ならぬ自分たちにも少なからず向けられているというのに。


 罪子が行うのは観察と記録、そして報告のみであった。物質世界にはたらきかけることは出来ないし、同業の仲間同士でしかその存在を認識しあうことは出来ない。息をするかのように善行を積む向田秀一の観察は、さほど暇ではなく、むしろ多忙でもあったが面白みがあるわけではなかった。

 仕事に飽きたとき、罪子はよく向田秀一の精神を読んだ。罪子達は観察対象者一名に限り、その読心を許されている。
 本来は観察対象者の悪行の際に伴う「悪意」の判定をするための権限であった。些細な悪行であっても、それに対象者の猛烈な「悪意」が伴う場合、ポイントのマイナス値は増幅判定される場合が多い。悪意の分だけ、報告される悪行の罪深さも、そして対応する罰の重さも増えるのである。
 それは同時に善行にも言えることであり、「善意」のポイント加算は仕事のひとつでもあったが、罪子は向田秀一の「善意」を読むことをしなかった。長年の観察の結果、それを読むことが無意味であると知っていたからである。
 向田秀一の善行にヒトへの「善意」が伴った試しは、これまでに一度たりともなかった。
作品名:罪子、辟易する 作家名:pikipiki