珈琲日和 その13
『常に答えは己の中にありき』僕はこの名言を何処で覚えたのでしょう。けれど、いつの頃か、この名言は何かにつけて浮かび上がってきます。何の本から引用してきたのかはハッキリとは覚えてはいませんが、いつも迷っている僕の背中を押してくれるのです。思えば文章を書くと言う事は多かれ少なかれ誰かに与える影響がある仕事だと思います。僕のように常に受け身の姿勢で、お客様のアクションに答えるような類いの仕事ではなく、無数とは言えども限られた表現方法や言葉を組み合わせて、何かを新しく作り続けていく事は宇宙の片隅で星の元になるような隕石や細かな塵を造り続ける事にも似ているような気がします。その無数の隕石や欠片がぶつかり合って爆発して、中にはくっ付いたりして大きな惑星になったり、彗星のように彼方此方を飛び回ったりし始めて、それこそ太陽のように強く輝く惑星が出来る確率なんてもっと低い世界で、ひたすら真っ白な原稿用紙に向かって孤独に万年筆を動かし続ける。きっと、ブラックホールだって時々出来てしまうでしょう。そんな生み出す苦労を知らずに気軽な気持ちでしか僕のような読者は眺める事しか出来ませんが、それでもその方達の為に心を込めて珈琲を煎れる事は出来ます。
「お待たせ致しました」
そう言って、耄けているお客様の前にブレンドをお出ししました。温度といい、濃度といい最高です。恐らく今までで5本の指に入る位に心を込めました。その至高のブレンドが入ったカップをそっと持ち上げて一口飲むと、お客様の表情がふっと和らぎました。成功だと、僕はその様子を横目で盗み見ながら密かにほくそ笑んで洗い物を始めました。お客様は少しの間、じっと味わうようにして、目を閉じたりカップをかなり伸びた無精髭の間に覗く口に持っていったりしていましたが、ふと呟くようにぼそっと言いました。
「・・・やはり、この店のコーヒーに敵うものはない。同時に、儂の創作意欲を奮い立たせるものは、この店のコーヒーを置いて他にない」
「もったいない程のお誉めの言葉を頂きまして、誠にありがとうございます。お客様から味が落ちた等と言われぬようにして日々頑張って参りますので、どうぞいつでもご利用下さいませ」と、カウンター内のお客様からは見えない所で、濡れたままの手でもって密かにガッツポーズをしながら、僕は控え目にそう答えました。
「儂もマスターを見習って精進せぬば、より納得のいくようなもの等書けないのだろう・・」お客様はそう言って、少し俯き加減になりました。スランプでしょうか?
「失礼ですが、お客様はどのような話をお書きになっていらっしゃるのですか?」
つい興味本位が先行してしまい、そんな不躾な質問をしてしまいましたが、お客様は対して気にした風もなく、さらっと答えて下さいました。
「儂が書いている主な風潮は人情ものや恋愛推理ものだ。だが、いつになっても真に書きたいと思っているものと、文字として書き綴っているものとが一致しないのだ」
「それは、書きたいものを書いていらっしゃらないという事でしょうか?」
「そうとも言える。だが、必ずしもそうとも言い切れない」なんだか難解な答えで、正直僕はぼんやりとしか、お客様のおっしゃっておられる実体が掴めません。
「ちなみに、真に書きたいと思っていらっしゃるのはどのようなものですか? もし差し支えなければ、お教え願いたいものでございます」僕がそう言うと、お客様はふと口を噤んでしまい、気を紛らわすようにしてブレンドを又一口召し上がりました。それから、鼻毛を抜いたり、スプーンを手に取って眺めていたりしていましたが、思い切ったように顔を上げると、はにかみ笑いをしながら口を開きました。
「・・・そうだな。まぁ、そんなに、もったいつけるような内容でもない。・・・・マスターは、特攻隊の事は知っているかな?」
「戦争中の特攻隊ですよね? 敵艦に飛行機共突っ込んで行かされた若者達の。そんなに詳しくはないですが、歴史の教科書やメディア等で大体は」と僕は答えました。
「そう。儂が書きたいのは、そんな話だ。ある所にいた平凡に産まれ育った若者が、親友と共に特攻隊に招集されてから、敵艦に突っ込むまでの、そんな話だ」
「そうですか。けれど、戦争ものは、戦争が終わった今だに、社会の風潮やら戦争推進派だのが多く点在している我が国では、賛否両論、万人に受け入れられるのは厳しいかもしれませんね。戦争アンチ派の僕は勿論、当時の様子を思いつつ、しっかりと受け取って読ませて頂きます」僕はそう言うと、ブレンドのお代わりを入れました。
「まさしくその通りだ。今の、いや、多分これからの日本で、いや、それこそ世界中でだ、戦争と言うものを始める輩がいなくならない限り、そんな話は受け入れられはしないだろう。もしかしたら、過ちを犯し続ける愚かな人類自体が消えなければ、無理かもしれない。だがな、儂は物書きの人生を懸けてでも、この話を書いて、己の言わんとする事全てを注ぎ込み、なんとしてでも書き上げなければならないと思っているのだ。いわば死ぬまでに果たさなけりゃならん義務だな」
そこまで一気に話し終えると、お客様は一旦ブレンドを口に含んで又1つため息をついた。すると、さっきまで創作意欲に燃えていらっしゃった少年のようにキラキラと輝いていた瞳の色が少し陰ったようにも見えました。凍ったように冷えた窓ガラスを甲高く耳障りな音で鳴らしながら、外を強い木枯らしが吹き荒んでいきました。
最近又新たに購入した大きな石油ストーブが、橙と黄色を含んだ赤い炎で煌々と勢いよく燃えています。周りに張り巡らされたよく磨き込まれた鏡のようなスチールの一枚板にその炎が何重にも映り込んでいて、まるでそれこそ彼方此方で爆撃でもされた何かが燃え盛っているかのように見えるのでした。店内を満たす空気の密度がなんだか変に高く感じて、重苦しいような気がしました。そんな中、ストーブの炎をぼんやりと見つめていた僕は、たった1つの浮かんできた疑問を口にしました。
「有無を言う事も出来ずに敵艦に突っ込むという使命を背負わざるを負えなかった若者達は、一体最後に何を思っていたのでしょうか・・・」
初老のお客様は、何処か一点をやはりぼんやりと眺めてはしきりに鼻毛を弄っては抜きしていましたが、僕のぽっかり浮かんだような問いに対してこう答えたのです。
「敵艦に突っ込んで死んでいった奴らが最後に思っていた気持ちは、儂なんぞには到底わからん。儂にわかるのは、突っ込み切れなかった死に損ないの気持ちだけだ」
「俺の父方の爺さんも、生まれつき右足が酷く不自由だった為に招集は免れたんだが、その当時、戦争に招集されるのは誇りなんだという考え方まで刷り込まれてたからな、非国民だと白い目で見られちゃあ、散々嫌な目にもあったらしいぞ」
先頃の作家のお客様の事を話していると、それまで黙って聞いていた渡部さんがカフェモカを啜りながら、そんな事をさり気に話してきました。
「その先生、よくわかってんじゃないのかな。そんな内容の本が、今のこの国では受け入れられないどころか、批評の的になるだろうっていうのを」
「だから、願っているだけで、実行しようとはしないのでしょうか?」