珈琲日和 その13
「恐らくな。表向きには戦争放棄した平和な国を気取ってはいるが、その実、ちゃっかり自衛隊だって存在するし、右翼だって厳しく取り締まる事はない。思想の自由だとかなんとか言ってな。それを疑問にも思わなくなっちまったマインドコントロールされているような大多数の国民の根本はなんも変わっちゃいないのさ。それに戦争ともなれば膨大な予算や莫大な額の金が動く。ある一部にとっちゃ、戦争なんて大規模な金儲けの手段なのさ。人の命と引き換えにして金が動く。心底ふざけた大博打」
「汚い世界ですね。そう言われれば、戦争そのものが、遥か大昔から隣の領地や国を支配したいからとかっていう欲から勃発したんでしたね。忘れてました」
僕は渡部さんの前にあったカレーの空皿を下げながら言いました。そう言えば、そもそもの戦争の成立ちは、そんな欲望が発端だった筈。やれやれ。今も昔もなにも変わっていないのだなと、自分で言っていて、なんだかガッカリしました。
「欲は果てしない。だが、しかし、人間は産まれるそれ自体から、もう既に欲なのだと言われている。そして、欲がなければ生きている事も出来ないとも言われている。産まれたいだとか、生きたいだとかも一種の欲望だからな」渡部さんはカフェモカを又がぶりと一口飲みました。いつも渡部さんが相手にしている小さな患者さん達は、きっと必死に生きたいという強い欲望だけが命の支えになっているのかもしれない。
そう考えると産まれる前から欲を持ち、様々な欲望に翻弄されながら生き、死ぬまで持ち続けなければいけない人間とはなんとも哀れな存在なのかもしれないと思いました。欲故の幸せ。欲故の不幸。自分のみならず、その他大勢を巻き込んでの欲望。そして、繰り返される歴史。壮大で立派そうに聞こえますが、感じる事はそんな風にしか生きられない性がただただ悲しくなるだけなのです。思わず僕は小さくため息をついてしまいました。それを、じっと見ていた渡部さんが添えるように言いました。
「その先生には、是非その願いを叶えて欲しいと俺は思う。今、ざっと聞いた感じだと、その先生はきっとスランプか、何か現実的な壁に打つかっているようだからな」
「そうですね。早く突破して欲しい限りです」僕も付け足しましたが、俄に作家のお客様のなにか思い詰めたような表情が引っ掛かりました。あの時、僕に簡単なあらすじを話してくれた、あの話それ自体が、もしかしたら実体験談なのかもしれないとふと思ったからです。特攻隊で招集されて、何らかの理由で幸か不幸か一人生き延びてしまった者の気持ち。例えば目の前で親友が突っ込んで行く所を目撃しなければいけなかったとしたら? 僕なら到底堪えられません。そんな事を思うとこの時代に産まれて、戦争を知らずにぬくぬく生きてこれて良かったなんて失礼極まりないのかもしれない安心感を抱いてしまいます。今目の前に広がる当たり前の日常、細かい色々はありますが、時々退屈ささえ感じてしまうような平和。その暮らしは、無数の誰かの犠牲の上に成立っている平和なのだと。それすらも不安定ではあるのですけれど、僕はそんな時代だからこそ一人でも多くの方にやってしまった過去を知って頂きたいですし、そこから学んで欲しいと思います。あのお客様に現実と戦えと望むのは酷な事なのかもしれませんが、少なくとも一人ではないのです。
「まぁ、無理強いは禁物だ。人は誰でも、自分ですらどうにも始末出来ない過去の1つや2つは必ず抱えているもんだからな。それは生きている証であり、同時に避けられない事でもある。問題なのは自分と周囲の人間が、それにどう向き合ってどう付き合っていくかだ。マスターも充分わかっているとは思うが、そればっかりは、いくら周りが何を言っても本人でないと決断が出来ない事だ。周りは静かに見守るのみだ。じゃ、ご馳走様」渡部さんは咳き込むようにして一気にそう話すと立ち上がり、手際良くお勘定を済ませ、病院に戻っていきました。レジ横の花瓶には、お客様から頂いた梅が一枝挿してありましたが、その丸い蕾はまだ固く、花開くには少し早かったのです。
「マスター、健三郎先生来てるか?」春の陽気が上がり始めた昼下がり、シゲさんが騒がしく店に入ってくると開口一番そう聞いてきました。
「誰ですか? その健三郎先生って?」と、僕は聞き返しました。
「なぁーに言ってんだ。あの作家先生だよ。作家先生っ!」
「あぁ。成る程。健三郎さんとおっしゃるお名前なんですねー・・・」そこまで聞いて、何処かで聞いた名前だなと俄に奇妙な感覚になりました。何処でだったっけ? 記憶をもどかしく手探っている僕には構わず、シゲさんは続けます。
「あの先生、やっぱすげぇ大物だったんだな。今、テレビだの新聞だので特集組まれて、えらく話題になってるぞ」と興奮混じりにシゲさんは続けます。
「はぁ、そうなんですか。最近あまりテレビを見てなかったので、全く知りませんでした。どうしてそんなに騒がれているのですか? なにかあったのですか?」
「なんでぇ、知らねぇのか? 存外マスターも薄情だね。俺も詳しくはわからんがな、次回の新作発表会かなにかで、あの先生、物書きとは文字の落書き等ではない、娯楽という括りにも半分以上足を突っ込んではいるが、全てではないとか何とか小難しい事を言ってな、私は物書きとしての度量を全て使い果たしても、学会から追放されても、刑務所に放り込まれても、真っ向から戦争という永遠の題材に対して、これから立ち向かって行くつもりだとか、大体こんな感じの大胆発言をしたんだとさ」
「成る程。そうでしたか」その他人行基な言葉とは裏腹に熱っぽく語るシゲさんに相槌を打ちながら、僕はカフェオレをお出ししました。
「いいじゃねぇのよ。あの先生。こんなしょっぱい世の中でよ、まったく、やってくれんじゃねぇか。俺、俄然応援するね」意気揚々とシゲさんが息込んでいる前で、僕は不意にあっと思い出して、軽く手を打ちました。そうだ。あの名言・・・僕が常日頃から心がけている名言が載っていた本の表紙には確か庚慧健三郎と書かれていました。学生の頃、その名字が読めなくて、辞書で読み方を引いたものです。そうだったのだ。あの本の作者だったのだと、偶然とは言え、人と人との不思議な巡り合わせをしみじみと感じました。シゲさんが不振そうに僕を覗き込んできました。
「どうしたぁマスター? 独り言か? 大丈夫かぁ? なんなら俺が相談に乗るよ」
そんな心配そうに乗り出しているシゲさんに、僕はふっと微笑みました。
「いいえ。なんでもありませんよ。ただ、思い出しただけなんです。大丈夫です」
「ほっか。それなら良かった」シゲさんはそう言って和やかに笑って、さも美味しそうにカフェオレを飲みました。そんなシゲさんの後ろには春めいた太い二筋の光の帯が埃や空気中に舞う塵を美しく輝かせながら窓から真っ直ぐに差し込み、その光がレジ横の梅の蕾にも微かにかかり、蕾にはうっすらと白い花弁が覗き始めていました。
『常に答えは己の中にありき』