橘 四平
頭が痛い。
痛みのせいかどうかは分からないが、目の前の世界が歪んでいく。
ポタッ。
ポタッ。
ポタッ。
「何……?」
この水滴が落ちるような音は、何処から聞こえてくるのだろうか。
周りを見ると、そこには誰もいない。
何処まで続くのか分からない木の階段があり、傷んでいるのか時折ミシミシと音を立てる。
左右には、一定間隔で火のついた蝋燭が立てられているが、辺りは薄暗い。
上も下も、先が見えない分、闇にすいこまれてしまうような錯覚さえある。
ギイッ……。
ギイッ……。
ギイッ……。
「ッ!!」
誰かが階段を上ってくる音。
私はとっさに『逃げなければ』と感じた。
無我夢中で何処まで続いているのかも分からない階段をかけ上る。
ギイッ……ギイッ……ギイッ……。
(足音が早くなった?)
このままでは捕まえられてしまう。
ギイッ、ギイッ、ギイッ、ギイッ……。
足音は更に早くなって、どんどん追いつかれていくのが分かる。
鼓動が早まり、頭の中では危険信号が点滅していた。
ギイッ、ギイッ、ギイッ、ギイッ……。
もう、すぐ真後ろに――。
(嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌ッ!!!)
ガッ!
右足の足くびをつかまえられた。
ミシミシ……と足を締め付けられる痛み。
叫びたいのに声が出ない。
私は必死になって、摑まれた足を放そうと、後ろを振り向いた。
「ッ!」
長い髪。
顔面の右半分の皮膚が焼けだれており、目は瞼と瞼がくっついているような状態で、それは酷い火傷のように見えた。
グッ。
首を絞められる。
息が出来ない。
苦しい……。
その時、火のついた蝋燭が私の所に落ちてくる。
衣服に火が移り、私の身体を炎が包み込む。
(熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い)
涙が頬をつたう。
(助けて、誰か……)
意識を失う、その直前に見たのは、私の首を絞めながら笑う女の姿。
「宝田さん、宝田さん」
名前を呼ばれ気がつくと、そこは図書室だった。
「彩音さん……?」
「涙が出てる、どうしたの?」
「私……」
足に痛みはない。
首も絞められていない。
身体も焼けていない。
(さっきのは幻?あの女の人は一体……)
「大丈夫?」
彩音に心配をかけている。
「私は平気。札を置いて、体育館の方に行こう」
ゴールは直前。
もし、ここで帰ったら、後で皆に何を言われるのかと思うと、そちらの方が恐ろしい。
私は、また、彩音の後をついて歩いた。
カタンッ。
カタンッ。
カタンッ。
やはり、私の足音とは違う。
音楽室の鏡で見た、あの赤い着物を着た女性。
とても彩音さんに似ていた。
それに、下駄もはいていて……。
「下駄……」
まさか、そんなわけがない。
あるはずがない。
でも、聞かずにはいられなかった。
「彩音さん……少し、聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいこと?」
ゆっくりと身体を反転させ、目と目が合う。
「職員室のところから気になっていたことなんだけど……」
少し言い辛い。
出来れば言いたくない。
だけど、気になって仕方がない。
「どうして、彩音さんの足音は私のものと違うの?まるで、下駄を履いているみたい」
彩音は、とくに驚きもせず、無表情のまま口を開いた。
「……橘四平の笑みを見たもの、それが私です。私は、その三日後、病にかかり息を引き取りました。いいえ、あれは病などではありません。呪いです」
「……ッ」
足元から徐々に姿を変えていく彩音に絶句する。
「私は、橘四平の血のつながった妹でした。それなのに、その妹でさえも殺すような狂人だったのです」
「妹……?」
「私も橘家の人間」
彩音の正体を理解し、息をのむ。
「あの夜も、今日のように蒸し暑い夜でした。私は、なかなか寝付けず、何度か寝返りをうっていた時です、理由は分かりませんが、突然、背筋が凍るような恐怖を感じたのです。それから、胸騒ぎがして、静かに寝ることも出来ず、少し気分転換でもと、庭を散歩することに致しました。ちょうど、丑三つ時の頃です、私の居る庭とは真反対の方向から火の手が上がったのは……。私が火事に気がついたのは、ちらほら炎が見え始めた五分後。そこでようやく事の深刻さを知ったのです。私は、運良く、兄の魔の手から逃げ延びたと思った。でも、それは違ったのです。あの笑みを、見てしまったから……」
鬼の笑み。
「あなたは、ここで何をしているの……?」
声が震えていた。
「ここで私は……生贄を求めているのです」
「生け……贄?」
それって、まさか――。
バラバラッ。
頭上から木の札が落ちてくる。
「これ……」
知っている名前は一つもない。
「鬼に殺された者達の名」
殺された…人達の名前。
ボウッ。
暗いはずの廊下に、何時の間にか一定間隔で蝋燭が置かれ、火が灯されている。
あの階段みたいに。
蝋燭は、体育館の中まで続いていた。
『タスケテ…』
『ワスレナイデ…』
『アツイ…』
様々な声が頭の中にながれこんできて、思わず耳を塞ぐ。
「毎年、この日に生贄が選ばれているのです。その人達は辛くて苦しい思いをかかえたまま、鬼に囚われ続ける……。やり残した事を悔やんでも悔やみきれず、自分が殺されたことですら、なかなか受け止めきれない。鬼に殺された者達は、皆、血の涙を流しているのです」
想像を絶する悲しみ。
「皆、苦しいのです。その苦しみから少しでも逃れるには、新たな生贄を鬼にささげるしかない。そうやって永遠と生贄が生贄を求めていく。それだけが、変わることのない真実として」
「新たな生贄……」
嫌だ。
そんなの嫌。
逃げなきゃ、逃げなくちゃ。
「生贄なんて誰でも良いんでしょ?なら、私を選ぶ必要なんてない!」
身の危険を感じ、ただ恐怖だけに支配されていた。
「誰でも良いのです。あなたでも、あなたでなくても、私達がこの苦しみから少しでも逃れられるのなら、誰だって」
その場から、体育館から出ようと、出口に向かって走ろうとした、その時――。
ガッ。
誰かに足を摑まれた。
物凄い力。
振りほどこうとしても、びくともしない。
痛い。
鮮明に蘇っていく、あの記憶。
思い出せば、思い出すだけ、涙は止まらなくなる。
「嫌……嫌……まだ、死にたくない」
彩音は、木の札を、箱の中に入れようとしていた。
その札には、『宝田亜美』と書かれている。
私が、体育館に置いてくるはずの札だった。
「何で……、それは私が持っているはずじゃ……」
カシャンッ。
亜美の目が見開く。
「今まで、何も問題がなかったと言いましたね。失踪した人も自殺した人も……それがどうしてだか分かりますか?」
「え……?」
毎年、鬼に殺されて行方不明の人が居るはずなのに、何故学校では問題になっていないのか。
まさか、学校が隠している……とか。
そんなわけがない、どうやったってばれるのは時間の問題だ。
では、どうして――。
「忘れてしまうからです。その人が存在していたという記憶が全て」
「忘れるわけがないでしょう!たとえ忘れても、写真とかノートとか、その人がいたって証拠は残る!」