橘 四平
「残りませんよ。何一つ。あの人は、生まれながらの鬼でした。鬼に捕らえられた者も鬼になるのです。……理科室は、鬼がもっとも好んだ場所。感受性が強い故に、気配感じ、あなたは気分が悪くなった。それだけで、生贄は決まる」
鬼がもっとも好きな場所。
気配。
気配。
(気配?)
何処かで感じたような気がする。
気配を……。
「もしかして、理科室から音楽室に行く間、鬼は後を……あの時の気配は……」
「ようやくお気づきになられましたか」
肩の力が抜けた。
今、やっと、分かったのだ。
この現実からは逃れられないのだと――。
「私……、死ぬの?」
「私達が居る世界は現実とは切り離された虚構であり、鬼は、虚構の世界に人を引きずりこむことで快楽を得ているのです。彩音という人物もまた、幻にすぎない」
ゆっくりと後ろを振り向くと、あの時とは違う、男の姿があった。
火傷もみられたが、それ以上に酷かったのは筋肉や皮膚の腐食。ボロボロと剥がれ落ち、骨が肉を突き破って壊死していた。
グッ。
男のヌルリとした手で首をつかまれる。
苦しい。
涙は止まらず、あふれ続け、男からあの夜の記憶が伝わってくる。
目の前で、手足を縛られたまま、顔の右半分が焼けだれていく女の姿。
あの時、幻に出てきた人……。
皆、囚われている。
カタンッ。
蝋燭が落ちてきて、あの時のように、私は炎で包まれた。
「あった!この箱だよね?」
「そうそう。私、札の回収係りなんだよね。一人でやらなきゃいけないから、きっと大変だろうなぁ」
プラスチックで出来た箱にネームプレートを入れる。
「手伝うよ?二人でやればすぐ終わるでしょ」
「ホント?」
「もちろん」
彼女達が笑いながら、横を通り過ぎていく。
あの二人には、私の姿が見えていないようだった。
(熱い……)
意識がだんだんと遠のいていく。
ぼやけた視界は、ほぼ炎で埋め尽くされ、かろうじて見える部分で、私は男のおぞましい顔を見た。
それは、人々を永遠の闇へと引きずりこむ、鬼の笑み。
「参りましょう、共に地獄の果てまで」
私を誘(さそ)う、ささやき声。
消えてゆく。
私が生きた証も、視界にある鬼の笑みも、何もかもが……。
『忘却こそ、最大の恐れなり』
20年前、最初に犠牲になった人間は、手帳に記すことで、後の者に危機を知らせようとした。
しかし、その言葉が届いても届かなくても、何も変わらないことは明白であった。
鬼が快楽を求め続ける限り、決して終わりが来ることはない。
悲劇は続く。これまでも、これからも――。