トレーダー・ディアブロ(8)
だが、西京が市場から奪っている資金は一日に百億ドルを超えている。サンダーソンは分かっていないのだ。百億ドルという金は今現場にいる人間全員の命より重いという事を……。西京がトレードをする事により我がアメリカ合衆国が受けている被害は、現場で特殊部隊の人間が死亡するよりも大きいのだ。
このまま今日の取引が終わってしまえば、ジョイナーが何らかの責任を取らされる事は明らかだった。
ふと、局長室の電話が鳴った。
ジョイナーの心臓が大きく跳ねた。ここに局長がいない事は、保安局の全員が知っている。つまり、この電話はジョイナー宛にかかってきたのだ。
彼は胃が痛むのを抑えて電話に出た。
「ハロー。あ、はい。そうです」
ジョイナー一人だけの局長室に静寂が訪れた。
電話の相手はジョイナーの予想通り、この作戦の指揮を彼に任命した男である。
彼はジョイナーに、アメリカ合衆国が受ける被害を最小限に抑える様、ある命令を下した。
そして、その命令の内容もジョイナーの予想通りであった。
彼の額の汗は遂に流れ落ちた。
「ですが、現場にはまだ隊員達が……。いえ、分かっております……。はい、
はい……、分かりました」
電話の相手は命令内容を告げると電話を切った。
ジョイナーに選択肢は無い。与えられた命令を遂行するだけだ。
彼は震える手で自分の胸ポケットを探る。
彼は自分の携帯電話を取り出し、番号をプッシュした。
三コール目で相手が出る。
「はい……」
「私だ。プランBを発動する」
「分かりました……」
ジョイナーは最低限の用件だけ伝え、電話を切った。
これで西京育也は一巻の終わりだ。
しかし、同時にSWTの隊員七名を犠牲にする事になる。
彼は局長室の椅子に深々と腰を下ろし、天井を仰いだ。
※
パロス・ベルデス半島の海沿いの崖に一台のジープ・ラングラーが停まっていた。
国道から大分離れた位置に停車しているので、人目に付く事は無いが、万が一誰かに見られても、傍らに置いてあるテントとバーベキューのセットを見てキャンプをしていると思うだろう。
実際、バーベキューのセットには火が付けられ、男二人が肉を焼いていた。
二人供、ティーシャツにジーパン姿である。そして、二人供野球帽を深く被っているので、彼らの表情は伺う事が出来ない。
ふと、一人の男の携帯が鳴った。
二人の顔に緊張が走る。
肉を引っくり返していた男が電話に出る。
「はい……」
「分かりました……」
男はすぐに電話を切ると、別の男に告げた。
「仕事だ」
男二人は焼いていた肉を放ってジープ・ラングラーに向かい、一人が後部ドアを開けた。
そこには、キャンプ用品と一緒に、キャンプにはそぐわない物が積まれていた。
歩兵携行式多目的ミサイル、通称ジャベリンである。
それは発射筒と、ミサイルのセットでジープの荷台に置かれていた。両方とも一メートル程の大きさである。
一人が発射筒を、もう一人がミサイルを荷台から取り出す。
発射筒を持った男が慣れた手つきで発射筒を点検し、その場に座り込み発射筒を海に向かって構える。
そして、もう一人がミサイルを発射筒にセットする。
総重量二十二キロの筒を一人の男が担いでいる。
ミサイルをセットした男は、発射筒を抱えた男を支える様に座り、カウントダウンを開始する。
「スリー……、ツー……、ワン……、ファイアー!」
発射筒を抱えた男がトリガーを引く。
その瞬間、発射筒内に炎が広がりミサイルが発射された。
発射されたミサイルは数メートル飛翔した後に安定翼が開き、それと同時に内蔵されたロケットモーターが点火される。ミサイルは高度五十メートルを維持して飛行し、内蔵コンピューターによって事前にインプットされた目標に向かって自律誘導される。
今回の目標は、ここから二キロメートル先の西京のトレーディングルームである。
ミサイルが発射さえされれば、後は彼らがやらなければならない事は無い。ミサイルは自律飛行し、九十九パーセントの確率で目標に到達する。
ジャベリンのミサイルの大きさは僅か一メートル程だが、その弾頭には八・四キロのタンデム成型炸薬が備えられている。その破壊力は、イラク戦争で分厚い装甲に覆われた戦車を、何台も一撃で破壊した事で証明されている。
彼のトレーディングルームは瓦礫の山と化す事だろう。
男達の仕事は終わったのである。
「さて……と……」
発射筒を抱えていた男は立ち上がり、少し焦げ臭くなった発射筒をジープの荷台に仕舞った。
「しまった!」
すると、ミサイルをセットした男がいきなり叫んだ。
「どうした?」
発射筒を抱えていた男は慌ててそちらに向かう。何か問題が発生したのであろうか。
彼が近づくと、ミサイルをセットした男は悔しそうに言った。
「肉が焦げてしまったぜ」
※
西京は相変わらずプラネタリウムでトレードしていた。
暗い部屋に彼がキーボードを叩く音だけが響いていた。
サンダーソン率いるSWTのメンバーは、この一時間、プラネタリウムの中で西京のトレードを見ていた。
この様子だと、西京が力尽きるまでには、まだまだ時間がかかりそうだった。隊員の中には、欠伸をする者や雑談をする者が出てきた。
サンダーソンは床に座り込んで、じっと西京の様子を伺っていた。
やはり、この家に大量破壊兵器に該当する様な物は無い。そして西京が行っているのは、市場でのトレードという真っ当な経済行為である。
サンダーソンは一心不乱にトレードを行う西京の姿を見て、ある疑問が生じていた。
西京は本当にテロリストなのだろうか――。
しかし、サンダーソンは裁判所の人間ではない。彼が何者かを判断するのは司法に任せねばならない。彼は自分の与えられた任務を全うし、現場の被害を最小限に抑えて西京を逮捕するだけだ。
西京の机のモニターには、次々と注文画面が現れては消えて行く。
すると、その時だった。
西京のモニターに、突然このパロス・ベルデス半島周辺の地図が表示されたのだ。そして、その地図の画面に、赤い小さな点が表示され、その点が点滅しながら西京の自宅に近づいて来るのが見えた。
それを見た西京の目は大きく見開かれ、彼のキーボードを叩いていた指はピタリと止まった。
実は、このプラネタリウムの天井には半径二キロメートルをカバーする熱源探知機が設置されている。それが作動したのだ。
その熱源は、パロス・ベルデス半島の入り組んだ地形の陸上から出現し、太平洋を一直線にこちらに向かっている。
「この動きは……、ミサイルか!」
西京は慌ててキーボードを叩いた。
熱源のこちらへの到着予定時間が表示される。
「二十秒後だと!」
西京の顔から血の気が引いた。
「皆、逃げろ!」
彼はコクピットの中から隊員全員に向かって叫んだ。
「早くここから逃げるんだ!」
しかし、急に叫び出した西京を見て、隊員達は呆然とした。皆、西京が何を言っているのか分からないという表情だ。
それもその筈である。この家にミサイルが撃ち込まれるなど、誰が想像出来るだろうか。
「どうした、西京……?」
作品名:トレーダー・ディアブロ(8) 作家名:砂金 回生