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砂金 回生
砂金 回生
novelistID. 35696
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トレーダー・ディアブロ(4)

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「私、鉛筆が全部売れるまで帰れない……」
 彼女は涙目でそう言って、握っていた鉛筆を前に出した。
 西京は胸が熱くなった。
 彼女は恐らく、母親に鉛筆が全部売れるまで帰ってくるなと言われているのだろう。そして、この小さな子は親の命令を律義に聞いて、こんな時間まで街を彷徨い歩いているのだ。彼女のいじらしさに西京の胸は打たれた。まさに現代版のマッチ売りの少女ではないか……。
「その鉛筆はいくらだ?」
「五十ペソです」
「分かった……」
 西京はそう言って財布を取り出し、千ペソ札を彼女に渡した。
 五十ペソは日本円で約九十五円である。鉛筆一本の値段にしては破格に高い値段で、明らかに観光客用のぼったくりの値段だが、彼は気にしなかった。
「その鉛筆を全部くれ」
 お金を渡された少女の顔がパッと明るくなった。
「本当ですか! 有り難うございます!」
 彼女は握りしめた鉛筆を西京に渡した。
 しかし、すぐに彼女は困った顔をする。
「あ、でも私、お釣りを持ってない」
「いいんだよ。お釣りなんて」
 西京はもう一度中腰になり、彼女と目線の高さを合わせてその目を見つめた。
「君、名前は?」
「アイリン……、アイリン・モレノ」
「そうか。アイリン、お釣りは必要ないよ。その代わり、お釣りのお金でノートを一冊買ってくれないか?」
「ノート?」
「そう。そして、これを君に」
 彼はアイリンから買ったばかりの鉛筆の束から、鉛筆を一本取り出し、彼女に差し出した。
「これは君の分だ」
「私の?」
「そうだ。この鉛筆とノートを使って勉強するんだ。そして、将来は自分の夢を自分で叶えられる大人になるんだ、いいね?」
「夢……?」
「そうだよ、アイリン。君の夢は何だ?」
「夢……? 分からない……」
 彼女は困った顔をして、下を向いて考え込んでしまった。
 幼い頃から仕事という現実的な行為をしてしまうと、漠然とした夢を見られなくなる子が多い。そういう子供達は、サッカー選手になりたいとか、歌手になりたいという根拠の無い夢を語らない。思考が大人の様に現実的になってしまうのだ。
 彼女は暫く考えていたが、何かを思いついた様に顔を上げた。
「あ……でも、私が一生懸命勉強したら、学校に行って、友達出来るかな?」
「友達? ああ。一生懸命勉強すれば、きっと出来るさ……」
 彼女は万遍の笑みを西京に見せた。
 西京に彼女が学校に行ける確証などもちろんなかったが、彼はこの小さな女の子に生きる希望を持っていて欲しかった。
「有り難う、ミスター!」
 彼女はお礼を言うと、直ぐに百八十度回転して家に向かって歩き出した。
 やっと帰れるのが嬉しいのか、早足で彼女は歩いていく。
 西京は左手を少し挙げて彼女が歩いて行くのを暫く見ていた。
 そして、彼女が夜の闇に消えて行くのを見届けると、自分もホテルの方へ歩き出した。
 もう、今夜は夜遊びする気にはなれなかった。
 しかし、西京は何歩か歩いただけで、直ぐに立ち止まってしまった。
 不意に、先程別れたばかりの少女の事が心配になったのだ。
 いくら地元の子供とは言え、こんな夜遅くに、あんな小さな子供を一人で歩かせる訳にはいかない――。
 彼は振り返り、先程彼女が消えた暗闇の方へ早足で向かった。
 せめて彼女が無事に家に辿り着くまで見届けてやろうと考えたのだ。
 それは、ファンドのトレーダーとして成功し、自分の欲しい物は何でも手に入る様になった彼が、道端で鉛筆を売る貧しい少女にした、ちょっとした親切のつもりだった。
 しかし、彼のこの行動が、後の彼の人生を大きく変えてしまう事になる。
 勿論、彼はそんな事を知る由も無かった。
 西京が暫く歩いて行くと、直ぐに彼女の後ろ姿が見えた。
 彼は声をかけようか迷ったが、結局彼女の後ろ姿を見守りながら気付かれない様に後を付いて行く事にした。
 フリピンの街は都心と郊外の落差が激しい。国道を暫く歩くと、直ぐに明かりが無くなり、暗い田舎道になる。
 彼女は道路の両脇にコンクリートで出来た仮設住宅の様な家が並ぶエリアに入った。
 西京はこの辺りが彼女の家かと思ったが、彼女はそのエリアを無視して真っ直ぐに歩いて行く。ここはマニラの工場等で働く労働者達が住むエリアだ。日本人の西京にしてみれば仮設住宅の様に見える家も、彼らにしてみれば夢のマイホームである。しかし、彼女はどうやらここの住人では無い様だ。
 そして、彼女が更に暫く歩くと、今度は道の両脇にバラックが建ち並ぶエリアに入った。
 マニラ市のトンド地区、所謂スラム街に入ったのだ。
 道路に街頭が無くなり、辺りが更に暗くなる。
 西京は彼女がこんなバラックに住んでいるのかと可哀想に思った。トンド地区には電気が通っていない家も多く、すぐ前を歩いている彼女の後ろ姿すら見失ってしまいそうな程に道路は暗かった。しかし、この辺りも彼女の家は無い様だ。
 彼女はこの夜道に慣れているのか、テクテクと歩いて行く。後ろを付けている西京には気付く様子も無い。
 西京は彼女に気付かれない様に、しかしその姿を見失わない様に細心の注意を払って歩いた。
 辺りが暗くなったせいか、見上げると星がよく見えた。
 満天の星空の下、二人の奇妙な散歩は続いた。
 暫く歩くと、今度はバラックすら道路の両脇から消えた。
 そして、彼女は不意に道路から脇道に入り、広い土地に入って行った。
 もちろん、西京もそれに続いたが、彼は一歩そこに入ると、立ち止まってしまった。
「これは……!」
 そこに広がっていたのは、住宅街でも、スラム街でも、バラックの家ですらなかった。
 そこにあったのは、地平線まで続く広大なゴミの山だった。
 暗くて良く見えないが、ゴミの山の中に獣道の様な微かな道がある。
 彼女はその獣道を器用に歩いて行く。
「なんだ……、これは……?」
 西京は息を飲んだ。
 そこはマニラ市北部のトンド地区にあるゴミ処理場だったのだ。
 西京がこわごわ処理場に入ると、所々に粗大ゴミを集めて作った粗末な小屋が見えてきた。
 それは先程見てきたバラックよりも更に小さく、見窄らしかった。
 しかし、その小屋の周りには洗濯物が干されていたり、火を焚いた跡があったりと、確かに人間が暮らしている痕跡があった。
 なんと、こんな場所に人間が住んでいるのだ。
 西京は目の前に広がる光景が信じられず、その場に立ち尽くしてしまった。
「う……!」
 そして、彼はそこら中に漂うゴミの異臭を嗅いで咳き込んだ。
 このゴミ処理場にはマニラ中の可燃ゴミ、不燃ゴミが集められて来る。当然その中には生ゴミもあれば、産業廃棄物もある。それら様々なゴミの臭いが一体となり、辺り一面に漂っていたのだ。
 彼は気分が悪くなり、口を手で押さえた。もちろん、彼は今までこんな大量のゴミに囲まれた事は無い。その異臭は彼が耐えられるレベルでは無かった。
 彼はこれ以上進む事は出来なかった。
 西京はショックを受けた。
 アイリンを最後まで送ってやれなかった事もそうだが、それ以上に、こんな劣悪な環境の中で暮らしている人間がいる事を知らなかったのだ。こんな、衛生観念の欠片も無い環境の中で、あの小さな女の子は生きているのだ。