もう一つの部屋
高槻は駅前の商店街まで歩いて来た。特に用事があるわけではなかった。レギュラーコーヒーを飲みたいと思っていた。昨日の早朝、道路に五百円硬貨が落ちていた。交番には届けなかった。以前、財布を届けたら四時間も拘束されて執拗な尋問を受けた。窃盗犯だと思われたらしい。だから、今回は届けずに、コーヒーショップでそれを使いたいと思っている。インスタントではないコーヒーを、ずっと昔から飲みたいと思っていたのだった。
昔風の喫茶店もあったが、コーヒーショップのチェーン店に、彼は入ることにした。ふたつある店のどちらにするか、そこが問題だ。
何度も行き過ぎたのは、店の中の客が怖かったからである。昔の同級生や仕事仲間の誰かが、その中に潜んでいて声をかけてくるかも知れないと思った。若い女性店員も怖い。注文の仕方も判らない。注文するときに変な声がでて笑われるかも知れない。そんなとき、高槻は顔が真っ赤になる。それを見られることが厭だった。
結局彼は逃げ込むように黴くさい古本屋に入り、三冊百円の文庫本を買うことにした。その三冊は小説である。
驚かされた。
店員が、あの女性だったのである。
夜中に水割りを飲んでいたかも知れない、隣の部屋の美人だ。