もう一つの部屋
引っ越して数日後の土曜日、高槻は夜中の物音で目覚めた。それは、グラスの中に氷を放り込む音だったような気がした。クローゼットの奥は、やはり微かに明るいと思った。その先にある部屋で、ウィスキーのオンザロックか水割りを飲んでいる人物が居る。高槻はそう思った。彼は壁に耳を押し当ててみた。そうしてみると話し声が聞こえた。内容は判らないものの、確かにそれは話し声だと思った。飲みながら話をしていると思った。男の声のようだった。テレビかラジオの音声かも知れないとも、高槻は思った。
翌日の正午過ぎ、ふとんから出た彼はマンションの周囲を歩いてみた。四階建てのそのマンションでは、十二世帯が居住している筈である。高槻の住まいは三階の真ん中だった。クローゼットは彼の住まいの西側にある。西側の隣の部屋のベランダに女性が居た。美人だった。彼よりは少し若いような気がした。
「おはようございます。昨夜ウィスキーの水割りを飲みましたか?」と、訊いてみたかったが、それは心の中だけでのことだった。そんなことを初対面の相手に訊けるわけがなかった。高槻は非社交的な男で、それは臆病だからだった。三十を過ぎても恋愛経験はない。女性に恋をしたのは小学生のときが最初だった。相手は同級生だった。中学生のときも、高校生のときも彼は片思いをしていた。ラブレターを書いたこともあるが、投函したことはなかった。相手の住所が判らなかった。名前が判らない場合もあった。訊けないのだった。