有刺鉄線
vol.5 狼狽
なかなか寝付かれなかったにも関わらず、8時には目が覚めてしまった。
キッチンへ行き、煙草に火を点け、珈琲を淹れた。
ソファからむくりと起きた圭佑が寝惚け眼で藤崎のいるテーブルに近づいてくる。
「おはよう・・・ございます」
「おはよう。なにか食うか?」
「うん・・・はい、お願いします」
「俺は朝はパンなんだ。いいか?いいなら顔洗ってこい」
ぺこりと頭を下げて出て行く圭佑を見やって藤崎は鼻で笑う。・・・おかしな奴だ。昨日怒鳴ったのが効けたらしい。運動部に入ってるのだから生意気そうでも多少は年功序列を知っていることだろうさ。
そう思いながらも藤崎はどこかで圭佑を甘やかしてあげたい気もしている。
顔を洗ってきた圭佑に藤崎はトーストを焼き、リンゴジュースを注いでやった。
藤崎はできるだけさり気ないように言葉を発した。「・・・この前、おまえが一緒にいた背の高い奴は誰だ?」
「この前?ていうか、一緒にいる背の高い人なら大概、桐野先輩だと思うけど」
いつもどこか皮肉っぽい話し方をする圭佑が恥ずかしそうに躊躇いながらその名前を口にするのに気づいた。
「美術館におまえが来るなんて、その先輩の趣味か?」
「え?美術館?藤崎さんもあそこにいたの?へえ。なんかヤバイ品物の引き渡し?」
「馬鹿野郎。こう見えても俺もアーティストなのさ」
圭佑は吹き出してジュースをぶちまけた。「ごめんなさい。あんまりおかしくて」傍にあったティッシュで拭き取りながらまだ笑っている。
「この顔じゃ似合わないかな」
「そ、そういう意味じゃないよ。俺なんか全然わかんないんだから。あんな絵の良さが判る人って尊敬するよ」
「ほお。で、その先輩も尊敬してるのか?」
藤崎は自分の言葉の中に陰気な嫉妬があるようで気が咎めた。だが、圭佑の方は藤崎の嫉妬などまったく気にも留めていない。
「うん。先輩はね、みんなの憧れだよ。サッカー部の中でも特別な存在なんだ。もうJリーグのあちこちから声が掛かってるって話だし。俺の夢で・・・手の届かない人だ」
「そんなことないだろう。楽しそうに笑ってたじゃないか」
「優しい人だからね。誰にでも気を遣ってるんだよ。俺が甘えても怒らないし、嫌がらないでいてくれて。・・・俺にないものをいっぱい持ってる・・・」
「好きなのか?」と聞こうとして藤崎は止めた。聞かなくとも伏し目がちに話す圭佑の上気した頬がすべてを物語っている。目が潤んだようになってもう少しで涙が落ちるのではないかとさえ思われた。
つい意地悪く突っ込んでしまう。「いつもみたいに誘惑すればいいんじゃないか」言ってからしまったと思う。
だが圭佑は「はあ」とため息をついた。「無理だよ。あの人に・・・そんなことできない」
「そう言うからには脈がありそうなのか?」
「なんかね。視線は感じるんだよね。時々、俺のこと、じっと見てる気がする・・・」
「なら、話は簡単じゃないか」
「簡単じゃないよ。言えるわけない」突然手を振り上げて頭を抱えようとしたのでリンゴジュースを入れたグラスに当たって勢いよく床に飛んで行った。フローリングでグラスが割れる音がする。
驚いた圭佑は慌てて破片を拾おうとして指を切ってしまった。
「痛」
「馬鹿。なにやってんだ。」
「うわ。結構切ってしまった。痛いよお」
「間抜けというのはおまえのことだ」
人差し指から吹き出す血を見て藤崎は思わず圭佑の指を舐めてしまう。
狼狽してつぶやく。「すまん」
圭佑の指からまた血が溢れてくる。