犀
強さの順位としては褐鉛、輝沸、水銀と続いて、尖晶、翠銅、灰長、緑簾、海泡、天青が大体同じ強さで、まだ始めたばかりの柘榴が一番弱いがそれもじきに追い付くだろう。
時は年の瀬、師走の頭。三年次生が揃いも揃って就職活動もせず札遊びに夢中とは中々に問題があるだろうが、各々準備をする者はきちんとしているので深い追求はご容赦願いたい。加えて補足すると、褐鉛は卒業後に結婚する心積もりである為、彼女のみ遊びに興じていようと何ら不都合がないのを名誉の為に述べておく。
反面、文化系人間の例に漏れず、堅実な部分もあった。近頃の話題は専ら進路希望についてであり、時々は一般教養の試験や履歴書の書き方なども語り合う場面があった。
水銀は美術教師を、海泡は国語教師を志し、日夜教員免許の取得の為幾つもの授業を受講しているのだが、ここで槍玉に上げられるのが海泡だ。
理由は単純である。
「出来たらどこかの学校の美術教師になるとして…無理だったら別な会社を探します」
「そうだよな。美術系はそれ位しか道がないもんな。副業とかは？」
「それも考えるべきでしょうね。取り敢えず、教員採用枠を見てから考えます」
これは水銀と尖晶の遣り取りで、水銀の言い分は至極まともである。一応、大抵の美術教師がそれだけではまともに生活出来ぬと知っての事だろうかと聞いてみたが、それでも尚美術教師になると決めている。良い事だ。
海泡はというと、恐ろしく沢山の不安が残る。そも発表が下手だし、会話の端々を言い間違えるのは日常茶飯事であって、蛍光ペンと蛍光灯を言い間違えた時もある。おまけに、本人は蛍光ペンと言っているつもりだったのだろうが、指摘されるまで二度三度に渡り蛍光灯、と言ってしまうような、そう、所謂天然なのだ。それも筋金入りの。
教師に向いていないと自覚はしているようで、しきりに「教師になるつもりはない。親に言われたから取るだけだ」などとのたまっているが、三日後には「出来たら母校に戻って教師になる」などと寝言のような言葉を吐いている。これだけならまだしも、何度も何度も繰り返されると、聞いている方も苦労する。海泡とは無意識と無自覚の人間であるから、本心では猛烈に教師になりたいと思っている癖、無理だからと自分を割り切らせようと「教育関連の出版社を受けようと思ってる」と繰り返し口に出している。その唐突に始まる独白(海泡の独白は何時も唐突だ)の中には、教師になれ、だの、教師に向いているんじゃないか、だの、そういった背中を押してくれる言葉を待ち望んでいる節がある。
無論、己が道を突き進むように生きる他九名は無責任にも軟弱な意志を後押しするような、残酷極まりない発言はしない。海泡がどれ程渇望しようとそれは本人が強固な意志で以て踏み切るべきであると考えているからだ。
短気な翠銅と天青などは最早苛立ちを覚える段階に来ているが、これぞ憎まれ役の出番よと、二人が怒りを露わにする前に尖晶が良い加減はっきりしろとせっつくのだが、海泡は厳しい意見をぶつけてくる尖晶を無意識に、だがあからさまに嫌うばかりで一向に解決しない。
元々、海泡は認めないが、彼女は尖晶を嫌っていた。僅かではあるが恨んでもいたようでもある。何度か逆鱗に触れようと、尖晶の額に生えた赤い角について言及した事がある。
「その角、鋸で切らないの？」
海泡はとても高いソプラノ、無垢な子供よりも子供らしい声をしている。僅かに首を傾げながら、思わず漏れてしまった、といった様子で彼女は言った。
場所はもう夜を迎えたばかりの薄暗い廊下で、担当教授の授業が終わった後の出来事だった。尖晶、翠銅、海泡、褐鉛、天青、灰長、柘榴の七人は、鋭錐先生という神話や宗教を扱う教授のゼミを受けている。
他の顔見知りはぞろぞろと先を歩いていて、尖晶と翠銅が並んだ後ろを、海泡は静かに歩いていた。
「切らないよ」尖晶は直ぐに答えたが、僅かに息を呑んで、翠銅が怒気を孕んだ声を上げる。
「海泡、お前なぁ、この角はちゃんと血も通ってりゃ神経も通ってんだぞ？何考えてんだ」
「あっ、そっ、そっか！翠銅もだよね、ごめん！」
怒る翠銅に、海泡が何度も何度も半分裏返った声で謝罪する。だが、翠銅は気付いてはいないようだが、尖晶は分かっていた。海泡の無意識の水面に僅か浮かんだ意図を読み取っていた。否、読み取らずに、読み取れずにいられようか。翠銅には分からないのだ。尖晶の中には正義などないから理解出来る。
「まぁまぁ、落ち着け、翠銅。海泡の目的、というかこの話題の重点はそこじゃない」
「は？どういう事だよ尖晶」
「海泡、君、僕を憎んでいるだろ？今のはただ純粋に、僕を怒らせたかったんだろう？だけど…翠銅も居る場所で角について言うのは止めろ。翠銅は関係ない。これは僕と、君の問題だ」
一瞬、海泡の表情が凍って、息が止まった。
嫌味な位静かな廊下は如何にもお誂え向きで、心中密かに尖晶は舌舐め擦りした。
「何時でも良い。掛かって来いよ。君程度じゃ、僕を傷付ける事は出来ない。但し、翠銅や他の人にも害を与えた場合は容赦しない。いいな？」
至極楽しそうに口角を上げてやれば、翠銅は口を噤み、海泡は口を開いた。
「ううん、そんなつもりじゃないよ…」
全く説得力のない、か細く感情の籠もらない、棒読みだった。彼女は自分の中にある負の感情よりも口から出した言葉を信じる。真実がどうであれ、それは既に癖だった。
「どうだか」
反吐が出そうだ。無意識の無神経に、尖晶は歯噛みした。ありとあらゆる不名誉の称号と一通りの侮辱を浴びてきた尖晶を、言葉で傷付けるのは不可能に近い。何故なら尖晶は冷徹な理屈屋で偏屈でもあったから、誰かに嫌がらせをされても「さて、次に俺はどう出ようか」と嬉々として対処するような人間であった。悪意には滅法強い。他人が自分に向ける敵意などは退屈を紛れさせる玩具にしか過ぎず、何よりも自分がそういった諍いに関して、常人よりも遥かに強く、また優れているという自覚があった。どんな卑怯な謀略も、一番有効であると判断すれば躊躇わず自らの手で実行した。
然し、このような人間の屑、卑賤な性の生き物にも認めるべき部分があって、尖晶は友情を重んじる性格であった。
特に、此の世に生まれ落ちて以来、初めて出会う角持ちの友人、翠銅であれば尚更で、自分は良かろうと、彼が侮辱されたり蔑ろにされるのは我慢がならなかった。勿論、翠銅も既知の間ではよく知られた紳士であるから決して黙ってはいないだろうが、それでも尖晶は我慢がならないのである。
尖晶は翠銅の中に、もしかしたらなっていたやも知れぬ高潔な自身の姿を見るのだ。角持ちでありながら歪みのない精神に憧れすら抱いている。
角の生えた生き物は、往々にして角に触れられるのを嫌う。角は力の証、戦士に取っての獲物、雷神トールに取ってのミョルニルである。いわば己を己たらしめる一因、切っても切れぬ分身である。